「ビジュ」とは、ビジュアルを略した言葉であり、容姿(顔のみならず全体的な雰囲気やスタイルを含んでいる)と同じような意味である。この「ビジュ」という言葉は、若者の間でよく使われている一方で、この言葉が嫌いだったり、気持ち悪いと思う人も多いようだ。
実際、「ビジュ」という言葉について、批判的に論じている記事を読んだ。
その記事(以下、参照記事)では、「ビジュ」という言葉は、従来の言葉(たとえば「美人」とか、「かっこいい」とか)に込められたルッキズム(容姿による差別)的な意味合いを、新しい言葉である「ビジュ」を使うことで表面上誤魔化し、他人の容姿を好き勝手に価値判断することを正当化する言葉であるとして、強く非難されていた。
私は、この記事の意見に賛同しつつも、感覚的であると感じた。そのため、自分なりに論理的に検証するために、本記事にて、「ビジュ」という言葉について考察することにした。
ビジュの意味やニュアンス
「ビジュ」という言葉は、「顔」や「見た目」という言葉と何が違うのか。「ビジュ」も「顔」も指し示す対象はその人の容姿であり、その点ではほとんど同じであると思われる。
しかし、両者にはおそらく微妙な差がある。それは、「ビジュ」の方がよりその人の髪型やメイク、スタイルといった総合的な雰囲気を指しているということだ。「ビジュ」は、なんとなくその人が全体的にまとっている雰囲気、そのスタイルの統一感に対して使われているのだろう。
ビジュの背景
「映え」の追求
では、なぜ、「見た目」や「顔」という言葉と微妙に異なる「ビジュ」という言葉が誕生したのか。なぜ、その微妙な差が必要となったのか。その背景には、SNSの存在があるだろう。特に、インスタグラムなどの画像投稿系のSNSの存在が大きいと思われる。
画像投稿系のSNS、主にインスタでは、投稿される写真の見栄えが重視される。それを象徴する言葉として、インスタ映えという言葉が流行った。
インスタ映えとは、その写真が美しく、見栄えがいいため、インスタに投稿することで映えそうである、というような意味である。たとえば、美しい風景や美味しそうな料理、かわいいファッションなどの写真である。これらの写真は、美しかったり、可愛かったり、インパクトがあったりする写真である。
「映え」の価値基準化
インスタでは、こうした映える写真が求められる。そして、その環境下で、ユーザーは写真を投稿し、投稿された写真に反応し合うことで、インスタ的価値観に合わせた評価を互いにしあう。
こうした評価し、評価される環境においては、その環境の評価基準が増強され増幅されていく。その増幅は、評価基準の妥当性を問い直すことなく、他人から良い評価を受けたいという人間の本能的な承認欲求によって、加速していく。そのため、映えそうな料理やスイーツを注文し、写真を撮ってそのまま食べずに捨ててしまうといった、社会問題となるような過剰な「映え」の追求までされた。[1]
このように、インスタは利用者数を増やしていき、国民的なSNSといっていいほど普及した。その結果、インスタによる、インスタ内部の価値基準が、外の世界=リアルの世界にまで広がっていった。つまり、インスタ的な価値観が普遍化されたといってもいいだろう。
「映え」から「ビジュ」へ
「映え」の普遍化
インスタが普及し、そこで築かれた「映え」という価値基準が強化され、その価値がインスタを超えて、日常に侵食した。いわば、インスタ的価値観が、内在化したのである。
すると、どうなるか。かつては、日常のなかにあった「映え」そうなものをインスタに投稿していたが、最初から「映え」そうなものを探すようになる。要するに、すべてのものがインスタのための素材と化す、すなわちコンテンツ化するということである。
「映える顔」=「ビジュ」
結果として、人間が最も興味を抱く対象である人の顔や見た目が、最もコンテンツ化されることになった。
SNSに投稿される顔、見た目、スタイルは、インスタ的価値基準に則ったコンテンツであり、それに即して価値判断される対象である。つまり、顔・見た目はコンテンツ化すると同時に、コンテンツとしてその良し悪しを判断されるようになった。
そこで、「コンテンツとしての顔・見た目」を評価する新たな言葉が必要になった。なぜなら、従来の美しいや可愛い、かっこいいはあくまでも顔・見た目そのものを評価する言葉であり、コンテンツとしての顔・見た目とは評価方法が異なるからである。
こうして、「ビジュ」という言葉が誕生した、と考えられる。
現実とコンテンツの混同
現実のコンテンツ化
このように、インスタ的価値基準が蔓延し、最も関心を惹き、その価値基準の対象となった顔の写真が、SNS上でコンテンツ化した。そして、従来の顔・見た目と区別されたコンテンツとしての顔・見た目として、「ビジュ」と呼ばれるようになった。
この言葉の区別から分かるように、実際のものと投稿されたコンテンツとしての写真・動画は別のものである。事実、顔の場合は、両者の差異を作るための加工アプリがある。風景の写真は実際より綺麗に撮られているし、食事も美味しそうに撮られている。
ゆえに、コンテンツと実物は違うということを人は知っている。
現実を裁くコンテンツ
確かに論理的にはそうである。しかし、現実は違う。顔の写真・動画がコンテンツ化するということは、すなわち顔がコンテンツ化するということになってしまう。コンテンツと実物の差異が無視あるいは忘却されてしまう。
ゆえに、コンテンツと実物の差が取り沙汰されることになる。加工を外したら、顔がイマイチだったとか、インスタで見たら綺麗な景色だったけど、実際行ったらあんまりだったとかである。本来誰もがその差異を知っているはずなのにである。
このことを象徴する例がある。美容整形を行う高須幹弥医師が自身の動画で、この写真・絵のような顔になりたいというクライアントが増加していると言うのだ。高須医師は、動画上で、写真に映る自分が可愛くないから整形したいというクライアントに必要なのは、整形ではなく、写真をうまく撮る技術だと言っている[2]。動画上の趣旨は、クライアントはすでに十分に可愛く、写真が可愛くないのは、顔のせいではなく、技術のせいである、というものだったと思うが、本論の文脈でも妥当な主張である。このクライアントは自分の顔と、コンテンツとしての顔の区別がついていないのである。
「ビジュ」が気持ち悪い理由
このように、「映え」というインスタ的判断基準で全てのものが評価され、その過程で、顔が「ビジュ」としてコンテンツ化されることになった。そして両者は混同され、「ビジュ」は現実の顔・見た目に対しても用いられるようになる。あるいは、そういったコンテンツ化を意図していない対象に対しても用いられるようになった。
ビジュという言葉とその評価基準は、あなたの顔・見た目は、インスタ的な「映え」を求め、自分の見た目をよく見せようと加工されたコンテンツである、という前提を暗に含んでいる。要するに、「ビジュがいい・悪い」と他人に対して言うことは、勝手に他人の顔をコンテンツ化し、それを評価しているということである。
このような、他人の顔を、一方的に、本人の意図に関わらず恣意的に、自分のもつ価値観を押し当てて、価値判断することは、他人の顔を、コンテンツ=商品のように扱うことであり、人格の尊厳を傷つけるものである。そのため、仮に「ビジュ」がいいという言葉を褒め言葉として使ったとしても、そこには、あなたの顔はモノ・コンテンツ・商品として優れているという意味が含まれることになり、相手を人間として扱っていないことになる。この攻撃性を感覚的に気持ち悪いと思うのだろう。