内田樹著『勇気論』第2章の批評と考察

今回は、内田樹著『勇気論』の第二章について考察する。

第一章はこちら↓

内田樹著『勇気論』第1章への同意と反論

 

第二章の要約

 

この章も第一章と同じく、往復書簡(手紙のやり取り)の形式をとっている。

以下、その内容を要約する。

 

編集者の質問

 

編集者の疑問として、「勇気はどこから湧いてくるのか」というものがある。そして、その疑問に関連した自身の経験を語る。

編集者が小学生の頃、同級生二人が教室で喧嘩していた。その喧嘩はエスカレートしていき、危険な状態になっていった。それを見ていた編集者は、とっさに、喧嘩している二人めがけて椅子を投げ、その喧嘩を収めた。普段ならそのような大胆なことはしない性格であった編集者だが、その時はなぜか気づいたら体が動いていたという。

そのとき何か突発的で衝動的な狂気のようなもの、つまり非理性的なものが働いたように思う、と編集者は回想する。

このような少年期の「向こう見ず」で「粗暴」な行動は勇気と関係があるのか、すなわち、狂気は勇気と関係があるのかについて質問をする。

以上が、編集者側の内容だ。

 

著者の回答

 

これに対して著者は、この回答に答える前に、第一章にも登場した『孟子』(孟子の言行をまとめた著作)に登場する孔子の言葉、

 

自ら反(かえ)りみて縮(なお)ければ、千万人と雖も吾往かん

 

をとりあげる。この言葉は、「自分が顧みて正しいと思うのなら、敵が千万人だろうがその道を進む」という意味だ。この孔子の言葉は、非常に勇猛さを感じさせる言葉であり、勇気とは何かについて明確に示しているように思われる。

しかし、この言葉には前段があり、文脈を踏まえる必要がある。この言葉が語られた文脈は、「動かない心」(≒勇気)とは何かについて語っているというものである。孟子は、この「動かない心」の例として、三つの例を挙げる。

一つ目は、相手が弱者か強者で態度を変えない心、二つ目は、戦いにおいて勝てそうな時も負けそうな時も態度を変えない心である。これら二つは、戦いの中での勇気の話であり、相手に勝つための勇気という実践的で、実利的な勇気についてである。

このような文脈において、孔子の語る勇気は全く毛色が異なる。孔子の「自ら反(かえ)りみて縮(なお)ければ、千万人と雖も吾往かん」の前段はこのようになっている。

 

自ら反みて縮からずんば、褐寛博(かつかんばく)と雖も吾惴(おそ)れざらんや

 

この言葉は、「顧みて自分に理がなければ、賎民を相手にしても、自分はおそれる」という意味である。これは、上の二つの例とは全く異なる勇気である。

著者の内田は、この孔子の言葉に対して、

 

でも、どうやら孟子は「恐れない」ことだけではなく「恐れる」ことにも勇気は必要だという孔子の両義的で多層的な教えの方に叡智の深みを見出していたようです。(p.53)

 

としている。そして、勇気の実用的側面から、新たに道理という観点を導入して、道理がなければ退くという勇気を提唱したことを、「『勇気』論のまったく新しい地平を切り拓いた」(p.54)と評している。

このように、自分に理があればそれを貫き、理がなければ潔く認め負けることが勇気であるとする孔子の勇気論について論じた上で、質問の回答へと移る。

質問は、「自身の少年期の向こう見ずで、粗暴な行動が勇気と関係があるか」というものだったが、それに対し、著者は「ある」と回答する。その理由は、そこに「人としてやむにやまれぬもの」があり、そこから勇気について考えるきっかけになるからだ、というものである。

 

批評

質問と回答の不一致

 

まず、以上の要約から明らかなように、この章においては、質問に対して回答が与えられていない。勇気と狂気の関係を尋ねた結果、回答としては、その大部分が孔子の言葉の説明であり、その説明も質問とは噛み合っているようには思えない。

そこで、まず、編集者の質問の意図を汲み取り、それに対し、勇気との関係性を論じてみたい。

 

質問の分析

 

まず、この章において、質問者の当初の関心は、「勇気はどこから湧いてくるのか」である。これは、本書のそもそもの出発点である、「現代には勇気が不足している」というテーマからして、妥当な問いである。

その勇気の源泉を考える上で、質問者は、過去の自分の行動を取り上げる。

既述した行動における重要な点は、

・とっさに動いた、意図せず体が動いたこと

・普段ならしない大胆なことをしたこと

・その場を収める目的が(無意識的にであれ)あったこと

だろう。

まず、とっさに体が動いたということは、考えるより先に行動していたということで、何か自分を動かす無自覚な源泉が存在することを示している。

そして、その行動は、普段ならしない大胆なことであり、かつ、それがその場を収めるという正義の目的を持っていた。すなわち、勇気をもって何かをするというシチュエーションと、この行動が合致しているのである。

このように考えると、質問者の真意は、次のようになるだろう。子供の時に、結果として勇気のある行動をしたことがあるが、その時は、勇気を奮ってその行動をしたわけではなかった。だが、こういった勇気を奮うことや、理性的な判断に先立って行なってしまう向こう見ずな行動には、何か勇気の萌芽のようなものがあるのではないか、といったものであろう。

そして、質問者は、この行動が、突発的で、意志が先立たないことから、その源泉が「狂気」であると考えたのだろう。

 

質問の回答

 

では、この質問に対して、どのように回答するべきか。

まず、この向こう見ずな行動が勇気の萌芽であることは、ありうるだろう。

なぜならば、この行動をきっかけにして、自分には自分が思ったよりも大胆な行動ができるのだと思えるようになるからだ。

質問者が大人になってからも、この子供時代の行動を覚えていたように、このような突発的に行なった大胆な行動は、記憶に残り、その行動の意味について考えさせる。その結果、それまではあまりにも大胆で自分にはできないと考えていた行動も、実際にできた以上、可能なのだと考えるようになるだろう。そして、その行動が、無意識的で、突発的なものであったにせよ、その場を収めるという正義の目的をもっていたことから、自分の中に正義感があると思えるだろう。

したがって、この行動は、自分に正義のためなら、大胆な行動が起こせるという自信をあたえ、それが勇気につながっていくと考えられる。

しかし、この行動はあくまでも、勇気の萌芽である。実際に勇気をもち、行動を起こすということは、行動にあたって障害となること、たとえば、人の目や、その行動の結果、自分の性格などを考慮した上でなお、正義のために行動を起こすということだろう。

 

まとめ

疑問点

 

第三章以降でこの質問に対する回答があるのかはわからないが、本章において著者が質問に答えず、別の説明を行なっていることから、この著者は、自身の知識の範囲にやや無理やりに引き込もうとする傾向があるのではないか、という印象を抱いた。

 

学べる点

 

第二章において、提示されていた質問については、上記のように自分で考えるきっかけとなった。著者の回答は、質問とは対応していなかったが、孔子の言葉の説明や、勇気論としての斬新さについて学べた。

また、編集者の質問に自分で考えるきっかけができた。