内田樹著『勇気論』第1章への同意と反論

 

 

内田樹著『勇気論』を読んでおり、現在、第1章にあたる1通目を読み終えた。この時点での、内容についてまとめ、賛同と反論を論じる。

 

 

 

本書について

 

本書は、著者の内田と編集者の古谷が、手紙(Email)のやりとりをしている(往復書簡)という形式である。そのため、章立ては、〇〇章ではなく、〇〇通目となっている。

中心テーマは、「勇気とはなにか」、「なぜ勇気が必要なのか」であるが、それぞれの章で、ある程度独立したテーマが扱われている(と思われる)。

本書は、日常の言葉で、身近なことを取り上げ、日頃の悩みや疑問から、哲学的語りを始めているため、誰にでもわかりやすい内容である。と同時に、日常にはふと考え始めるとなかなか答えの出ない問題があるということがわかる。

 

本章のまとめ

 

本章は、著者が、「いまの日本人に一番足りないものは何だろうか」という問いに対して、「勇気」と答えたことをきっかけに、編集者とのやり取りが始まる。そして、編集者がその答えに納得した理由、置かれている現状、そして勇気に関する質問をした後、著者はひとまず「勇気とは何か」、「なぜ勇気が現代に足りないのか」について論じる。

章の終わりでは、勇気について、以下のようにまとめられている。

 

つまり、勇気を持つというのは、「恐れない」という感情的な自己抑制が利いていることであると同時に、「私は論理的に正しい」という知性的な足場をしっかり踏まえているということです。(p.35)

 

このように、著者は、勇気には、感情的な側面と論理的な側面の両方が必要だとしている。では、なぜそういえるのか、そしてなぜ現代において、勇気のこの二つの側面が不足しているのかについて、それぞれ論じている。

 

感情的な側面

まず、勇気の感情的側面についての著者の主張をまとめる。

著者は、自身の少年期に、漫画や小説を通じて、「勇気」が第一に必要なものだと刷り込まれてきたという。そのような価値観が漫画や小説で唱えられた原因は、そういった作品の作者の、自らの意見を主張せず、大勢に流されて、戦争に突入してしまったことへの反省である、と著者は分析する。

そして、著者の年代と比べて、現代において勇気が減少した原因として、『少年ジャンプ』を取り上げている。『少年ジャンプ』の標語は、「友情・努力・勝利」であり、著者は、特に「友情」が第一に挙げられていることを指摘する。

友情とは、「理解と共感」が不可欠であるため、勇気とは相容れない部分がある。なぜならば、勇気とは、孤独を恐れずに、自分が正しいと思うことを貫くことだからである。

したがって、著者は、勇気の感情的な側面は、孤立を恐れず自分が正しいと思うことを貫ける感情的資質であり、それが不足している理由は、『少年ジャンプ』に代表されるように、他者との理解・共感が重視され、孤立を遠ざける友情が重視されているからだ、と論じる。

 

論理的な側面

次に、勇気の論理的側面についての著者の主張をまとめる。

論理とは、名探偵の推理のようなものである。

事件現場には、さまざまな手がかりが残されている。その手がかりから、推理して犯人を見つける。最初から正解が定められた問題を解くのではなく、断片的な手がかりをつなぎ合わせ、自ら仮説を作り、その仮説が状況を最もよく説明できると考えるならば、それがどれほど突拍子もないことでも、真実であると考える。

この名探偵の推理は、論理というより、「論理の飛躍」である。なぜなら、それは、あらかじめ定められた論理的帰結なのではなく、断片をまとめ、その間に連関を見出し、それをつなぐ論理を創造するという営みだからである。これは、優れた学者が、自身の理論を創造するプロセスと同じである。そして、このプロセスにおける論理的思考とは、このような飛躍を準備するための、ステップである。

現代において、以上のような論理が不足する原因を、著者は教育である、とする。例として挙げられているのは、論理国語という授業科目の導入である。論理国語とは、「契約書や例規集を読める程度の実践的な国語力」(p.26)を養成するものらしい。たとえば、生徒会の議事録と生徒会の規約を見て、生徒会を年度内に開けるかを問う問題があったらしい。(p.25-6)

このような、あらかじめ答えが定められているものを単に読み解くというものが論理であると捉えられていること。そして、文学を非論理的として軽視するような価値観を、社会の意思を決定する立場の人がもっていることが、論理的な勇気を育む上での障害となっている、としている。

 

したがって、著者は、勇気の論理的側面を、断片的な事実・情報を組み合わせ、そこに自分自身の独自のつながりを見出し、たとえ周囲に理解し難い帰結であっても、自分の論理を信じて、その帰結へと飛躍すること、とする。そして、論理を、飛躍を許さず、誰もが同じ結論を導出できるような、あらかじめ答えと解法の定められた問いであるとして教育していることが、現在の勇気の論理的側面の減退の原因である、としている。

 

本書への批評

 

以上が本章の主張をまとめたものである。以下、それに対して批評をしていく。批評は、同意と反論に分ける。

同意

まず勇気の感情的側面について論じる。

友情を第一に重視する場合、その友情を壊すことができなくなる。そのため、友人に反対するような意見を通すこと、すなわち自分を貫くということができなくなる。

明らかに自分が正しいと思うのであれば、それについて友人と話し、その上で意見が合わず、意見が合わないまま折り合いをつけることができないのであれば、確かに友人でいることをやめたほうがいい。

 

次に、論理的側面について論じる。

論理が飛躍を含むこと、その飛躍に対して勇気をもつこと、すなわち、自分の思考に対して自由を認め、それが辿り着く結論に対して自信を持つこと、このことには賛同できる。

とくに、論理が、その論理を作り上げる者自身の内では、勇気をもった飛躍を要請するという点は、目から鱗のような発見だった。確かに、偉大な発見に限らず、自分自身何か手応えを感じるような発想があったときには、いくつかの材料をもとに、今までにはない大胆な回路の接続のようなことが生じているように思える。

そして、論理国語に対する批判にも賛同する。この教科は、つまらなそうだし、不要であると思う。なぜなら、規約を読んで、その内容から必要な情報を拾い上げるという作業は、今まさにAIによって置き換えられつつあるからだ。つまり、こうした作業は将来、確実に不要になる。

また、確かに必要な情報を読み取るという能力は重要だが、そんなことは子供の好きなことをさせておけば、勝手に習得する。たとえば、ゲームの攻略なんかがいい例だ。子供は攻略本やサイトから、今自分に必要な情報を探し、それを試し、即座にフィードバックを受けるということを喜んでする。要は、自分の好きなことならば、このようなことは勝手にやるし、勝手に能力が身につくのだ。

 

反論

勇気の感情的な側面と論理的な側面は、どちらにおいても、内面的なことが語られている。確かに、自分自身の内面的には、孤立を恐れず自分の意見を持つこと、非常識を恐れず論理の飛躍を許すことは重要である。

 

しかし、それを他者に伝えるとき、外面化するとき、事情はそのままではないはずだ。

 

まず、感情的な側面について、自分が正しいと思うことを相手にも伝わるように説明する努力はするべきだ。初めから孤独を恐れないというところに主眼を置くと、他者とわかりあうことに支障をきたす。まずは、自分が正しいと思うことを相手に伝え、相手と話をし、その上で合意できないのなら孤立を避けないという順番が重要だろう。

そして、このようなオープンに自分の思うことを語り合う上で、友情はむしろ有益であることが多いはずだ。互いにその人格を認めているからこそ、立ち入った話しをすることができる。そして、互いを認めているからこそ、その話を聞く価値があると思えるし、その話を聞いて、自分自身を改めうる可能性が生じる。

 

このことは、論理においてもいえることである。

名探偵のホームズは、確かに自身の頭の中で、天才的な直感によって、事件解決のためのパズルを解く。しかし、それは自身の頭の中での話である。ホームズは自らの推理が確信に至ると、今度はそれをワトソンや警察や関係者に語るのだ。この際に、自らの頭脳に生じた論理の飛躍をそのまま話すことはない。その飛躍の隙間を埋めるように、論理を練っていく。つまり、自身の思考を他者に伝達可能な形態にするために、論理の飛躍を埋めていくのである。

 

このように、著者は、勇気について、少し孤立的すぎる定義をしているきらいがある。確かに周囲が何と言おうと自身の信念を貫くことは、時には大事だろう。それこそ、戦争に対する反対などはその通りだろう。しかし、最初から周囲を相容れない存在とするのではなく、話の通じる相手であると考えた方がいい。信念を貫き、全体としては何も変わらないことよりも、信念をもって全体を変えることのほうがよいだろう。

また、論理においても、その論理を内的に発展させる点は論じられているが、それを外的に表出することは論じられていない。論理は、単に自分の中で何かを発見するためのツールなのではなく、その正当性を測るツールでもあるはずだ。その際に、自身の飛躍を人に理解可能な形にしていくこともまた、論理の役割だろうと思う。

 

まとめ

 

第1章から考えさせられることが多い本である。自分の視点からは、反論点がいくつかあるが、このように読者に思考を促す本は良い本だと思う。

また、論理に勇気ある飛躍が必要であるという点は、今までにない考えで、刺激を受けた。