『ストーリーが世界を滅ぼす』のあらすじ2【書評】

前編はこちら↓

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前編では、物語とは何か物語の人への効果とは何か物語の良い点・悪い点についてまとめた。

後編では、そのような物語にどう対処すればいいのか、その解決策をまとめる。

 

不可欠な存在としての物語

では、このような物語に対し、どう対処すればいいのか。

物語は良い面と悪い面の両面を併せ持つ道具である。著者は次のように述べる。

「たしかに、ナラティブ[≒ストーリーテリング]は私たちが世界を理解するために使う主要な道具だ。しかしそれはまた、危険なたわごとをでっちあげる際の主たる道具でもある。」(pp.26-7)

このように、物語という道具は、使い方次第で、社会に全く異なる影響を与えるのだが、この物語自体はなくすことはできないし、なくてはならないものである。なぜなら、物語は太古から、コミュニケーションの最も有効な方法として存在し、集団形成に寄与し、人間を万物の霊長たらしめた要因であり、物語への愛好は人間の本能に刻まれたものであるからだ。

このような、必要不可欠でありながら、それが致命的な害をもたらしうる物語を、著者は、「物語パラドックス」(原書の題名)と呼ぶ。これは、「酸素パラドックス」という言葉に由来する。「酸素パラドックス」とは、酸素がなければ生きていけないが、それは人体を酸化させる毒でもあるという酸素のパラドックス的な性質を表した概念である。(pp.27-8)

 

物語の悪い面への対応策

物語の負の側面の対応策として、本書が挙げているのは、以下のものだ。①の「寛容になる」が結論として述べられているが、それ以外も文中にて、対応策として論じられている。

 

  1. 寛容になる
  2. 人と物語の関係を研究する
  3. 科学の権威を取り戻す
  4. 悪役のいない物語

 

1、寛容になる

まず、本書の物語に対する対応策の結論は、「寛容になる」ことだろう。

寛容になるとはどういうことか。本書の最後を締める言葉は、このように記されている。

物語を憎み、抵抗せよ。

だがストーリーテラーを憎まないように必死で努めよ。

そして平和とあなた自身の魂のために、物語にだまされている気の毒な輩を軽蔑するな。本人が悪いのではないのだから。

(p.226)

ここで言われているストーリーテラーとは、一般的な物語の作者だけでなく、私たち全員のことである。なぜなら、人間は、ストーリーを作り、そのなかに生き、それを他者に語る動物だからである。

本書では次のように論じられる。人間には、現実を物語として解釈し、捉える傾向がある。そして、全く同じ現実を見ていたとしても、その解釈によって作られる物語は、人によって異なる。この異なる物語に生きる人間は、各々の物語が正しいのだと思い、それを守ろうとする。(pp.209-210)人は、このような物語を、子供のうちから受け入れ、作り上げてきており、無意識のうちに現実を物語によって解釈している。(pp.221-2)

このような人間の物語への愛好、あるいは依存は、本能的なものであり、人間の自由意志の及ばないことである。人間は本能的に物語を作り上げ、物語によって世界を見る。これは、人間という動物にとって避けられないことである。

それと同時に、どのような物語を作り上げ、そのなかに生きるのかについても、選ぶことができない。本書で引用されている研究によれば、政治的信条を決定する因子の30〜50%は遺伝によって決まるとされている。(p.216)そして、残りは環境が決めるだろうとしている。つまり、人は物語を受け入れるか否かはもちろんのこと、どのような物語を受け入れるかも自由に選択できるわけではないということである。いわば、人が物語を所有するというよりも、物語が人を所有するのである。

このような人間の性質について知っておくことで、自分とは異なる物語をもっている人々に対して、道徳的な怒りを覚え、不寛容になることは避けられるだろう。そうすれば、物語の悪い面である分断を緩和することができるだろう。

2、物語と人の関係を研究する

次に、著者は、物語と人についての研究の必要性を訴えている。著者によると、物語の科学は、まだまだ若く、分かっていないことのほうが圧倒的に多い。(p.261)

そして、自分たち人間のことを知らなければ、自分を改めることはできないので、物語が人間や社会についてどのような影響を与えるのかについて、大規模な学祭的な取り組みが必要だ、としている。(p.262)

物語と人間の心理についての研究をすることで、人がどのような認知的な欠陥をもっており、どのように物語がその欠陥を突いて人間の心理に影響を与えているのかを詳細に知ることができるだろう。いわば、ウィルスに対する人体の弱点を知ることで、そのウィルスを無効化しようという解決策である。

3、科学の権威を取り戻す

現代はポスト真実の時代だと言われている。それは、本当らしく見える物語が氾濫し、真実か否かよりも真実らしいか否かが重要視されているからだ。

このような現状を打破するためには、科学の力が必要である。かつて科学は、仮説に対し、エビデンスによる根拠づけを必要とすることで、真実の基準を確立し、宗教原理主義から人々を啓蒙した。(p.225)

科学は、仮説をに対して、厳密にそれが真実かをチェックする確立された方法である。要するに、科学は、単なる物語なのか、真実なのかを見極める方法なのである。

著者は、「科学は、私たちのエゴや物語が私たちに見せたいものではなく、私たちの目の前に実際にあるものを強制的に見せる一つのツールである。」(p.238)としている。これは、科学が真実らしさから真実へと人々を導き、物語による分断や陰謀論をなくす解決策であることを示している。

4、悪役のいない物語

上記の3つの対応策が、物語に対してその外側から対策していたのに対し、この対応策は、物語の内部から、その語り方を変えるものである。

物語の普遍文法は、トラブルや対立、そして道徳的な事柄を扱うというものだった。これらの要素は悪役の存在と相性がいい。ゆえに、多くの物語には、悪役と、それを成敗する正義の主人公が登場する。

この悪役は、対立やトラブルの原因となり、主人公が乗り越えるための障害として描かれることになるので、「人間らしさを排除した平板な姿に造形され」、「アルゴリズムを実行する機械」のようであり、「道徳的に変化しない」。(p.197)つまり、物語上の悪役とは、単に悪者という役割のみを担い、そこには人物像の細部は存在せず、おそよ実在するとは思えない人物になっているということだ。

こうした悪役の描き方は、自分たちと異なる人間を、人間性の欠いた単なる悪として捉え、彼らを攻撃することを正当化するものである。このような構造が、現実の社会に適用される物語として語られてしまうと、敵と味方を分け、敵に人格を認めず、攻撃することを正当化する一方的な正義が語られることになってしまう。

本書ではその解決策として、物語に悪役を登場させないということを論じている。本書の例では、『バベル』という映画が挙げられている。『バベル』においては、登場人物は皆、普遍文法に従って、深刻なトラブルを抱えてはいるが、その原因は悪役の存在ではなく、「一見なんということもない不注意や親切が結ぶ小さな人と人とのつながり」(p.196)である。

この『バベル』においては、登場人物が平板化されることなく、「立体的(ラウンド)」であり、「ページの平面から三次元の人々のように立ち上がってくる」(p.197)。つまり、単なる物語上の役割を担ったキャラクターなのではなく、実在の人物のように人格として描いているということだ。

これは、いくつかの日本のアニメについても当てはまるだろう。最近のもので言えば、『鬼滅の刃』についても同様のことが言われている。『鬼滅の刃』では、明確な悪役として、鬼が登場する。この鬼を主人公の炭治郎らが倒していくのだが、鬼は単なる悪役ではなく、鬼になった背景が存在する。その背景が丁寧に語られることで、鬼にも人間のような事情や心情があるのだとわかるのである。

このように、フィクションとしての物語においても、単なる悪役ではない人物の描き方をすることで、物語の悪い面への対処となるだろう。だが、フィクションでない物語、特に歴史や政治思想における物語において、こうした悪役を登場させない語り方は、より重要になる。

本書では、ナチス政権やコンキスタドールなどが例として挙げられている。歴史において、明確な悪として定義されている集団に対して、物語の悪役として語ることは、分断を生み、根本的な解決を妨げる。なぜなら、悪役とされている彼らは、それが善とされていた環境にあったのであり、同じ環境にいれば、誰もが同じ行動をしうるからである。ゆえに、著者は、「悪魔は『他者』ではない。悪魔は私たちだ。悪魔は同じ環境に生まれていればわたしが——あなたが——なっていたかもしれない人物なのだ。」(p.204)と述べている。

ここにもまた、著者の根本的な考え方である物語に対する不自由意志が表れているといえるだろう。つまり、人がどの物語のなかに生き、その影響を受けるかは、生まれや環境などで大きく決定されるため、私たちには人の物語に対して非難する資格などないということである。本書の例で言えば、パンを盗まずにいられること(=道徳的でいられること)は、それが可能な経済的余裕に恵まれているからである、ということだ。

 

まとめ

物語は必要だし、なくなることはない。物語は、人類をここまで繁栄させた原動力であり、現在も娯楽のみならず、わたしたちに連帯を生む力を与えている。

だが、物語には危険な副作用がある。なかでも大きな副作用は、物語が連帯を生む以上に、分断を作りだすことだろう。それは、昨今のSNSや選挙をみれば明らかである。

物語の副作用によって、分断が進み、真実の力が後退しつつあるポスト・トゥルースの時代において、以上で論じたような解決策は物語とうまく付き合っていくための道標になるだろう。