『ストーリーが世界を滅ぼす』のあらすじ【書評】

近年、SNS上ではさまざまな情報が飛び交っている。それらは、単なる情報なのではなく、発信者の感情や立場を背景に、加工された情報であることが多い。同様に、従来のメディアである新聞やテレビも、長らくそのような加工をしてきたことが、視聴者の知るところになった。

特に最近は、メディアの影響力を争う過程で、SNSと従来メディアが対立する言説を発信することも少なくない。このような有様は、まるで語り部同士のストーリー戦争のようである。

このような現代において、物語とはそもそも何なのか、物語に対してわれわれはどう向き合えばいいのか、といったことを考える上で、本書『ストーリーが世界を滅ぼす』は最適であろう。

この記事ではまず、本書の要点として、物語とは何か物語の人への効果とは何か物語の良い点・悪い点を、まとめる。

 

 

物語とは何か

まず、本書の内容をまとめる。なお、物語とストーリーは同じ意味で用いている。

物語の基本情報

本書では、物語を、「加工されたナラティブ(=物語 p.51)」、と「透明なナラティブ」に分類し、「加工されたナラティブ」のみを扱う。(p.51)

「透明なナラティブ」とは、「朝起きて、〇〇をして、〇〇をして……」のような事実を列挙するタイプの物語である。この物語には、以下で語るような物語の特性は当てはまらない。

重要なのは「加工されたナラティブ」である。以後、こちらのみを物語と呼ぶ。

この「加工されたナラティブ」とは、

・事実からフィクションの連続体のどこにでも位置しうる

・意味を作り出し、人間や文明に影響を与える

・共通の構造をもつ

とされる。(pp.51-2)

つまり、一般的に言われる〇〇物語のような物語だけでなく、より広義に物語的構造によって語られるもの全般を物語としている。

物語の共通構造

物語には、そのほぼ全てに基本的に共通している構造がある。これを本書では、「普遍文法」と呼んでいる。その普遍文法とは以下の構成要素を持つ。(pp.140-1)

・トラブル・対立に直面する人物を扱う

・道徳的要素を含む

物語は、ほぼ例外なく、上記の二つの要素をもつ。ゆえに、これらは物語の普遍文法とされている。

そして、例外はあるが*、これらの要素に付け加える三つ目の要素として、悪役が登場する場合が多い。トラブルや対立を扱い、そこに道徳的要素が含まれるならば、正義と悪の戦いになりやすいのは当然だろう。

この三つの要素が含まれる物語に典型的なパターンは、「勧善懲悪物」である。著者が引用する研究データによると、勧善懲悪の度合いが高いほど視聴率が高くなる。(p.159)すなわち、人気がある物語は、勧善懲悪の構造をもっている。また、著者が広義の物語であるとする宗教についても、キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教、仏教など、そのほとんどが勧善懲悪の構造をもっている。(p.159)

ここで注意する必要があるのは、勧善懲悪の物語に登場する悪役は、必ずしも普遍的な悪者ではないということだ。言い換えれば、物語の外でも悪者であるとは限らないということだ。著者は、「(中略)物語とは総じて、道徳的である(普遍的な原則を表しているという意味で)のではなく道徳主義的である」としている。これはつまり、物語は勧善懲悪の構造をもつが、そこに登場する善悪の基準が正しいかは問わないということだ。本書では、ヒトラーの著書『我が闘争』もまたこの普遍文法に則っているとしている。(pp.168-9)

 

*後編で扱うが、この例外は、物語の悪い面への対処法になる。

 

物語の影響力

物語は太古の昔から今に至るまで絶大な影響力をもっている。なぜなら、物語は、情報を最も効率よく伝達し、集団を組織する最良の手段だからだ。(pp.44-5)

では、なぜ物語が伝達と組織化に最も効率が良いのか。それは、物語が、他者の心をなびかすことができるからだ。

著者は以下のように述べる。

「(中略)この本能に組み込まれた[ストーリーテリングに対する]素直な愛着が、合理的な論証よりも強く、確かな事実よりも抗いがたい力を物語に授けてしまっている。」([]内補足 pp.17-8)

事実、人は、文字通り物語に入り込む。物語を読んだり見たりしているとき、人は、実際にその物語の中にいるかのような身体的反応をみせる。危ないシーンでは、心拍数が上がり、瞳孔が開く。(p.42)

身体的な反応だけではない。人は、ドラマや映画に登場する俳優が、役を演じているだけだとわかっているにも関わらず、その俳優と役を同一視してしまう。結果、その俳優に対するイメージが、演じる役によって決まってしまう。(pp.48-9)このように、物語を現実と同一視してしまうことは、「メディアの等式」と呼ばれる。(pp.46-7)

また、人が物語に没入する現象を、「ナラティブ・トランスポーテーション」という(p.49)。トランスポーテーションとあるように、人は物語に心を飛ばし、その物語の登場人物、主人公になりきる。現実の自分から離れ、主人公と同化する。そうすることで、今までの自分の価値観から切り離され、その主人公の価値観に同化することになる。その結果、物語が終わった後でも、今までの自分の偏見や先入観を低減させる。(pp.56-7)

このように物語は、その聞き手を没我にさせ、物語の中の人物と同一視させてしまう。そうすることで、物語の聴き手は、抵抗なくその物語の主張や主人公の思想を吸収する。つまり、物語は、聴き手を支配下に置き、その考えを植え付ける、と言ってもいいだろう。そしてその際に、理性の防御は効かないのである。

したがって、物語とは、人をなびかせることに特化した語りであり、それが優れている場合には、個人と社会に対して非常に大きな影響力をもつのである。

 

物語の良い面

このような物語には、次のような良い面がある。

まず、物語は情報を効率よく伝えるという利点がある。物語は聴き手の注意力を惹きつけ、そして、聴き手の心に長く残る。

次に、ある物語は、その聴き手の偏見を取り除く。たとえば、好感のもてるゲイの主人公の物語を見ると、その視聴者は、ゲイに対する偏見を低下させる。(p.56)こうした偏見を排除し、主人公に感情移入し、主人公を「私である」と考えさせる物語の影響で、18世紀後半の人権革命が生じたという主張もある。(pp.173-4)

そして、物語は道徳的内容を含むがゆえに、物語は、集団の道徳規範を強化し、集団の連帯を強める。本書で引用されている研究によると、強い感情を引き起こすドラマを見ると、観客のエンドルフィンレベルが上昇し、連帯感や帰属意識が強まる。(p.165)

物語はこのように、聴き手の偏見を取り払い、聴き手に仲間意識を拡張させ、それを強化させる作用をもつのである。

 

物語の悪い面

物語には以下のような悪い面がある。

分断

物語の普遍文法は、勧善懲悪である。つまり、物語には悪役が存在し、その悪役を排除する構造が普遍的に存在する。これは物語が、分断を生み出すことを意味する。

物語の価値観を乱す邪魔者である悪役は、聴き手の感情移入の対象である主人公らによって排除される。このように、悪者が排除されることを、人は喜ぶ。本書では、このような心理の説明として「共感的サディズム」(p.179)という概念が紹介されているが、『水戸黄門』などの勧善懲悪ものの一番「おいしいところ」が悪者が成敗されるシーンであることは、誰もが頷くだろう。

また、上記した、物語が少数派に対しての偏見を減らすという事象は、感情移入によって読み手・聴き手が主人公に共感することで、偏見を減らした。この共感とは、相手を「私たち」として考えるということである。また、仲間意識の強化も「私たち」のつながりを強化することである。

したがって、物語による偏見の現象や連帯感は、「私たち」とそうでない人の分断をより強調することによって生じるのである。よって物語は連帯を生むが、同時に排斥も生むといえる。

ネガティビティ・バイアスと陰謀論

物語が、人の本能に訴え、なびかせるような構造をもっているのは、人間の心理と親和性があるからである。そのため、物語は人の感情を刺激する性質をもちやすい。

そのなかでも、大きな問題はネガティビティ・バイアスである。ネガティビティ・バイアスとは、本書でされていた引用によると、『「ポジティブな出来事に比べて、ネガティブな出来事のほうが関心を引きやすく、記憶に保存されやすい……そしてモチベーションを刺激する力が強い」』というものである。(p.136)

このバイアスは、ニュースを見ていれば明らかだろう。ニュースのトップは、大抵が深刻な事件でネガティブな内容である。ポジティブなニュースは全くないか、あるいはおまけのような扱いである。このバイアスは現実を不当に悲観的に見せることになる。

ネガティブなこと以外にも、感情を活性化させるような種類の感情が物語にされる。たとえば、怒り・不安・高揚などである。つまり、こうした感情を引き起こしやすい物語が量産され、そうでない物語は作られない。その結果、陰謀論(本書では陰謀物語と呼ばれている)のような物語が広まることになる。

陰謀論は、典型的な物語の構造を持っている。陰謀論の構造とは、誰か黒幕のような悪者がいて、その存在のせいで問題が生じており、今まさに自分を含めた私たちが困っている。なので、なんとかしなくてはならない。このまま放置したら大変なことになる、というものである。このように、困難な問題、悪役の存在、恐怖と怒りの発生といった物語の構成要素を兼ね備えているのである。

こうした構造をもつ情報は、物語の構造をもつため、人の心理に影響を与えやすい。そのため、その情報が虚偽であっても、人はそれを信じてしまう。つまり、真実か否かよりも、真実らしいか否かが問題とされてしまうのである。

 

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