「スタバでMacを使っている自分、かっこいい」がなぜ嫌われるのか。自意識についての考察2

  • 2024年5月9日
  • 2024年6月11日
  • 批評

この記事は前回の続きです。

関連記事

スタバでMacを開いている人が、「スタバでMac開いている自分かっこいいって思ってそう」と煙たがれることがある。他にも、洒落たこと、「意識高い」とされていることをする人が、『「〜している自分かっこいい」と思ってそう』、と煙たがれることがある[…]

ダサい自意識

以上のことを前提に、「〜している自分かっこいい」がなぜ煙たがれるのかを考える。

その理由は簡潔にいえば、自意識が未成熟であるからである。そして、その未成熟性が、他者を巻き込むからである。

この未成熟な自意識、すなわちダサい自意識の種類を三つ挙げ、分析する。

そして、煙たがられる自意識である「〜している自分かっこいい」という自意識は、その中の三つ目のパターンに当てはまるだろう。

 

社会の基準への盲従

第一に、社会の基準に盲従しているパターンである。「〜している自分かっこいいと思ってそう」として煙たがれる行為は、大抵が洒落ている、あるいは「意識が高い」とされている行為である。つまり、それらの行為は、価値判断の社会的基準である。そして、前述したように、未成熟な自意識は、この基準に則ることで、その基準のまま自意識を形成することができると考えるのである。

たとえば、スタバでMacがかっこいいという価値基準があれば、それに従うことで、自分自身がかっこいいのだと思うようになり、そのような自意識を形成する。

このような社会的な基準に安直に従うことは、社会的基準がそのまま自分の自意識になるということを露呈し、成熟過程としての相対化と独自の価値観の形成がなされていないため、ダサいとみなされる。

 

他者の視線が自意識である

第二に、他者の視線がそのまま自意識となるパターンである。このパターンは、他者からそう見られることによって、自意識を形成する。つまり、他者が自分をかっこいいと見れば、自分をかっこいいと思えるし、かっこ悪いと見れば、かっこ悪いと思ってしまう。

したがって、このパターンの自意識は、他者の判断から逃れることができない。なぜなら、他者の判断・視線=自意識だからである。それゆえ、自意識の根拠について意識することもなく、その根拠を相対化することもない。ただ、他者の基準に左右されているだけであるがゆえに、未熟であり、ダサいとみなされる。

 

他者を利用して自意識をつくる

最後に、おそらく「〜している自分かっこいい」が嫌われるもっとも大きな原因となっている自意識を取り上げる。それは、自意識の形成に社会的基準を利用し、それに則ることで、他者の判断をあらかじめ買収し、自意識を形成しているパターンである。

具体的にいうと、たとえば、社会的基準としてスタバでMacを開いて作業することがかっこいいというものがあるとする。すると、このパターンの自意識は、それに則り、それを行う。そうすることで、社会的基準によってかっこいいと判断されうる権利を得る。さらにそれを周囲の人間にアピールする。そのアピールによって、他者の視線・判断を集める。なぜなら、第二のパターンと同じく、彼らには他者の視線が必要だからである。しかし、このパターンはあらかじめ社会的基準によって正当化されたかっこよさをいわば前もって買収しているため、その他者が本当はどう思っているかは関係がない。ただ、前もって買収しておいたかっこよさを誰かにアピールすることで、自分は社会的基準によってかっこいいと評価されるはずだと思うことを通して、自分をかっこいいと思うのである。

要するに、社会的な基準に則ることで、他者に対して、自分の望む見られかたをすることで、その視線を通して、自意識を形成しているのである。このとき、他者が本当はどう思っているかは、ほとんど関係がない。なぜなら、前もってこう見られるはずだという社会的基準に則しているからだ。よって、他者はほとんど背景として扱われるのである。

しかし、そのような他者から反応が返ってくることもある。その場合、望み通りの反応を得られるとは限らない。むしろ、ダサいと思われうる。そうなった場合、彼らは典型的な反応を示す。それは、その反応を示した相手を、あらゆる手段で否定することである。金のかかる行為だったら、僻みや嫉妬だと非難する。奇抜な行為だったら、常識に囚われているとか人の目を気にしているとかである。しかし皮肉なことに、常識に囚われ人の目を気にしているのは実は彼らの方なのである。

このように、この第三の自意識は、あらかじめ社会的に正当化されている(と思っている)ことを行い、それを人の目に触れさせ、それによって、その人たちがそのように思うだろうということを利用して、仮想的な他者の視線を買収し、それによって自意識を形成する。

このパターンの自意識が嫌われる要素としては、自分の価値観をもたず、他者の視線を自意識の根拠としていること、自分の望む他者の視線を得るために社会的基準に則っていること、他者に対するアピールが必要かつその他者を判断主体として扱っていないこと、他者に判断されたときにその他者を否定することで自分を正当化すること。これらのことが挙げられるだろう。

 

まとめ

自意識とは何か、その形成方法、そこに介在する他者の視線、そして自意識の成熟について論じ、未成熟な自意識、すなわちダサい自意識について論じた。

ダサい自意識の核心は、その自意識を形成するために、他人の判断が必要としており、その判断が自分の望み通りになるように、あらかじめ社会的な基準に則った行為を行なっているという、出来レースのようなところにある。

要は、「他人にかっこいいと思われないと自分をかっこいいと思えないが、他人は自分をかっこいいと思ってくれるかわからない。ならば、かっこいいとされていることをやれば、それはかっこいいと認められているのだから、かっこいいと思ってくれるに違いない。仮に思われなかった場合は、そいつがおかしいのだ」という論法を無意識的に使っているのだ。

そして、彼らは自意識を形成するために人の目が必要だから、SNSやオープンカフェといった目につく場所にいる。そこで、アピールをしている。しかし、彼らのなかでは、自分はかっこいいのであるという正当性を前もって買収しているため、誰に見られてようと同じなのである。彼らは、自分の中で完結している自意識形成の出来レースに、匿名の他者の視線が必要なだけである。この他者を利用した自意識の形成に対して、人は言語化されずとも自分が何か利用されているような感覚がし、憤りを覚え、そして煙たがるのではないか、と考える。

 

注釈

(1)根拠のない自信といったように、根拠のない自意識が可能なのかという問題はある。今後の記事で補足する。