「スタバでMacを使っている自分、かっこいい」がなぜ嫌われるのか。自意識についての考察1

  • 2024年5月8日
  • 2024年6月11日
  • 批評

スタバでMacを開いている人が、「スタバでMac開いている自分かっこいいって思ってそう」と煙たがれることがある。他にも、洒落たこと、「意識高い」とされていることをする人が、『「〜している自分かっこいい」と思ってそう』、と煙たがれることがある。よりはっきり言えば、嫌われる。

それは一体なぜなのかについて哲学的に分析する。結論を先取りすると、自意識が未熟であり、さらにその自意識の形成のために他者を利用しているという点に原因があると思われる。

本論の流れは、「〜している自分かっこいい」と思うことを、自意識として捉え、まず自意識とはなにかについて論じる。次に成熟した自意識について論じる。そして、未成熟な自意識について論じ、これをダサい自意識とする。このダサい自意識をレベル別に三つに分け、そのなかで最もダサい自意識の特徴を示し、この自意識の嫌われる原因を論じる。

 

自意識について

自意識の定義

自意識とは、自分がもつ自分に対する意識である。すなわち、自分が自分をどう思うかのことである。「自分はかっこいい」と思っているということは、自分をそのように意識しているということであり、自意識であるといえる。今回は、「かっこいい」や「洒落てる」といった、自分に対する価値の意識を自意識として扱う。

自意識過剰とは

自意識といえば連想される言葉として、「自意識過剰」という言葉がある。これは、他人の言動に対して、それが自分についてのことだと思いすぎてしまう、というような意味である。なぜそのような意味になるのかといえば、自分のことを考えすぎている(=自意識が過剰である)ため、どんなことでも自分のことだと考えてしまう、とされるからであろう。

しかし、この「自意識過剰」には、論理の飛躍がある。それは、自意識(=自分に対する意識)が過剰になると、他人の言動を自分についてのものだと考えるようになるというところにある。つまり、なぜ、自分に対する意識が過剰になると、他人を気にしすぎるようになるのかが抜けている。単に、自分で自分のことを過剰に考えているというような、自己完結的なあり方も可能だろう。

自意識と他者の視線

なぜ、自意識が過剰になると、他者の言動を自分に対するものと捉えるようになるのか。それは、自意識が成立するには、その根拠が必要であること、そしてその根拠になるのは他者の判断だからである。

まず、自分が何らかの自意識をもつためには、その根拠が必要である。たとえば、自分のことをかっこいいと思うためには、自分がかっこいいと思える根拠が必要で、その根拠をもとに自分をかっこいいと判断する。その上で、自分はかっこいい、という自意識が生まれる。つまり、自意識の成立には、その意識をもつための根拠とそれによる判断が先立っている必要がある。(1)

そして、そのような自意識の根拠は、他者に依存している。

たとえば、自意識の典型例として、容姿について考えてみる。自分の容姿について、良いのか悪いのかを判断することは、自分一人でできるような気がする。しかし、そもそもどんな顔が良いのかという基準がなければ、自分の容姿の良し悪しは判定できない。そして、その基準は、他者の集合体である社会が提供しており、自分自身の判断基準もその影響を免れえない。

なぜそのようにいえるかの根拠は、容姿についての判断基準が、国や時代によって相対的であることと、容姿についての自意識が他者からの評価によって形成されていくこと、という二点にある。

前者については、国や時代によって好まれる顔が異なり、良し悪しの基準が異なっていることを挙げれば十分だろう。メイクや髪型の流行はそれよりも頻繁である。

後者は、自分の容姿について判断するときに、過去に人が自分の容姿をどう評価したのかが、不可欠な要素としてあるということである。仮に絶世の美女が人里離れた場所で暮らしており、人との交流がほとんどなかったとしたら、その人は自分の顔について特に何も思わないままであろう。あるいは、よりありがちな例でいえば、容姿によって評価されてこなかった人は、自分の容姿についての自意識は希薄になるだろう。逆にいえば、容姿について褒められたり、貶されたりしてきた人は、それによって自分の容姿を強く意識するようになるだろう。

このように、自分が自分の容姿についてどう思うか(=容姿に対する自意識)や他の自意識は、根拠を必要としており、その根拠として、他者による判断という社会的な判断を必要としているといえる。

したがって、自意識形成には他者の視線(=判断)が必要であるため、自意識が過剰になると、必然的に他者の視線に対しても敏感になるのである。

 

自意識の成熟

上記で、自意識に必然的に他者の判断が介在することを論じた。では、自意識は他者の判断に従属せざるを得ないのかといえば、それは違う。その契機は、他者の判断の相対化にある。そして、この相対化と、その結果の独自の価値観をもつことは、自意識の成熟であるといえる。

他者の判断の相対化

自分がどのような存在であるのかを判断する基準として、社会的な基準が必要であることは間違いない。しかし、社会的な基準は必ずしも正しくはない。それは、対立する価値観がいくつもあることから明白だ。かつて、かっこよいとされたものが、ダサいと言われることは枚挙にいとまがない。

このように、かつて自分を判断する基準としていた社会的な基準が崩壊することを経験すると、社会的な基準全般に対して懐疑的になる。今かっこいいといわれているものもやがてはダサいといわれるようになるのではないかと思うようになる。その結果、社会的な基準、すなわち他者の判断を鵜呑みにするのではなく、他の基準はないかと考えるようになる。これは、基準の相対化である。

自分の基準をもつ

社会的基準の信用は下がったが、依然として自己意識に外部の基準が必要なことに変わりはない。ではどうするかというと、いくつかの自分の中で良いと思える基準を選び、自分なりに組み替えて、それを採用することになる。これが自分の基準をもつということである。

このような自分の基準をもつということは、その基準に自分の独自性があるということである。こうして自分の中に独自の価値観をもつことになる。独自の価値観とは、自ら選んだ一貫した価値基準である。例えば、なぜそれをかっこいいと思うのかについて説明ができ、その価値観を言動の全てにおいてなるべく貫いているのである。

このようにして、自意識は、過度に他者の視線を気にすることなく、自分が良いと思うものを作り上げていくことで、主体性を取り戻す。この主体性は、しかし、独善的なものではない。社会的基準を念頭に置きつつも、主導権を自分が握っているということである。

したがって、このような自意識は、根拠としての自分と他者の基準のバランスが取れており、かつ自意識の根拠について自覚し、それを正当化しうる論理をそなえているという点で、単なる社会的な基準を盲目的に受け入れただけの自意識に比べ、成熟した自意識といえるのである。

 

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