リラックスとは何かを哲学する2

前回は、リラックスとは何かについて、具体的なリラックス方法を挙げ、それらの方法に共通する点を考えました。

今回は、そのような性質をもった行為が、なぜリラックスになるのかについて、そもそもリラックスの意味である緩める・和らげるとは、一体何から緩和するのか、そしてどのように緩和するのかを論じたいと思います。

 

リラックスを求める原因は何か

前回行ったリラックスとは何かを簡単にまとめると以下のようになります。

リラックスするための行為とは、意識上、あるいは物理的に、日常の連続性を断ち、日常を意識の外に置き去って、その行為に没入することである。そして、その没入が深まると、もはやその行為を行なっている自分を意識しなくなる。すなわち、自己意識を放棄し、没我をすることになる。

では、なぜ日常・現実を、意識から完全に切り離し、忘却する必要があるのでしょうか。

それは、日常が負担となり、ストレスとなっているからです。

 

なぜ日常がストレスとなるか

日常には、ストレスの原因となる要素が、いくつかあります。

タスクの過剰

まず、タスク、すなわち、やらなければならないことが多いことが挙げられます。特に現代社会においては、様々なタスクが絡み合います。長期的な課題と、些細なタスクが混在し、その管理にすら一苦労であるという状態がよくみられます。

このように、やらなければならないことが多いと、当然それを一つ一つこなしていくことも大変ですし、そのタスクが蓄積している状態も人に負荷をかけます。いつまでにこれをやらなければならないと考えることは、常にそのタスクのプレッシャーにさらされているということです。

このように、日常において、人は、常に何かに要求され、何かをさせられているのです。これはつまり、常に負担がかかっているということであり、それは、常に自分の自然な状態を超えて、常に自分以上であるようにされているということです。このような状態は、ストレスとなるでしょう。

情報の過剰

次に、日常には多くの情報が溢れていることが挙げられます。それらの情報は一体なんのためにあるのでしょうか。たとえば、毎日さまざまなニュースがありますが、そのなかで自分に関係のあるものは存在するでしょうか。あるいは、SNS上で、他人が何をしているのかについて、知る必要はあるでしょうか。

その答えは、おそらく、「ない」でしょう。なぜなら、仮に本当に自分にとって必要な情報ならば、自分から探すからです。なんとなく、受動的に目にする情報は、自ら知ろうとはしない情報であり、自分にとって本来知る必要はありません。

しかし、世の中には、ニュース番組やサイトがあり、SNSで見ず知らずの人間の投稿がよく閲覧されています。つまり、そういった情報が必要とされているということです。

これはなぜかというと、個別の情報の内容が求められているのではなく、情報そのものが求められているからです。つまり、知りたいのは、個々のニュースの詳細なのではなく、全体としてのニュースであり、今世の中では何が起きているのかということなのです。

そのような情報を求める理由は、自分の見る世界・視点が不完全であるからであり、その不完全さを補い、より強固なものにしたいからと考えることができるでしょう。

自分の視点の限界

自分の世界・視点の不完全性、限界の原因は、主に二つに分けられるでしょう。

量的限界

一つ目は、量的な限界です。空間的、時間的、能力的、また知っている情報量的にも、自分には限界があります。それは、自分が実際に生きている時間や空間は、それらの全体のごく一部でしかないからです。日本に住んでいれば、他の国の細かな情報を知ることは難しいです。現代に生きていれば、100年後のことは知り得ません。つまり、自分に知りうるのは、自分の知が届きうる範囲でしかないということです。そのため、自分は世界の全体の一部でしかない。すなわち自分は全体に対して、局在しているということです。

しかし、この局在していることによる限界の領域は、さらなる情報を求めることによって、拡張することができます。たとえば、ニュースを見ることで、地球の裏側の情報まで手に入ります。このように、情報を知ることによって、自分の視点を量的に拡張することができるのです。

したがって、ニュースやSNSを、個別の情報は必要がないのに見る理由は、この量的な限界を拡張することにあるといえるでしょう。

質的限界

もう一つは、質的、あるいは原理的とでもいうべき限界です。

それは、自分は自分から見た世界しか見えないという原理的な事実に由来します。

自分は世界を自分の視点からしか見ることはできません。すなわち、他者がどのように世界を見ているのかがわからないということで、この他者の視点というものは、原理的に自分にとって知り得ない世界なのです。そして、このような知り得ない多くの他者が集合して、世界を見ています。

そして、その集合的な他者は、その視点によってなんらかの判断を、あたかも確信があるかのように下します。そうすると、その根拠を知り得ない自分は、他人の視点には、自分にはわからない正当性があるのではないか、と考えるようになります。それは、そもそも自分の視点が、局在する自分自身を根拠とするしかない、すなわち、不完全であることを自覚しているのに対し、人々は、自分に知り得ない視点から何かを判断しているのではないかと考えるからです。

そして、ときに、人々の判断は自分の判断と対立します。このような対立において、根拠が不十分であると自覚している自分の視点ではなく、集合としての他者の視点からの判断のほうが正当であるとみなすようになります。その結果、他者の視点によって、自分の視点が不安定になり、他者の視点の総体としての世の中や世間といったものの視点が、正当性があると考えるようになります。

このように、自分の視点が、集合的な総体としての視点よりも劣るもの・不確かなものであると自分自身が考えるようになると、自分の視点を総体としての視点によって補強しようとします。つまり、世間的・一般的な価値観に、自分を合わせようとするようになります。

この状態は、総体としての視点が、個人の視点を優越すると認識されている状態であり、この総体としての視点が、個人に内在化されるようになります。こうなると、自分自身の視点に先立って、一般的な視点において、どうであるかという判断がなされるようになります。これが自己自身の評価に適用されると、自己自身を一般的な視点において、世間的な価値観において、価値づけしようとするようになります。

こうして、人は、世間に受け入れられるような人になろうとし、たとえばステータスを欲したり、なんらかのキャラを演じるようになります。これは、現代社会において、よくみられることでしょう。

したがって、他者の視点を知り得ないという事実によって、自らの視点に確信をもてなくなり、他者の価値観を自らに導入しようとします。これは、つまり自分自身ではない別のものを自らに植え付けているということになります。

情報過剰の問題点

これら二つの限界はどちらも、人は自らを自らを超えた存在にしようとします。これは、人に上昇志向を与え、日々を充実させる原因にもなりますが、一方で、自分でないものになろうとすることが、ストレスにもなるでしょう。

 

リラックスはストレスにどう対抗するか

このように、日常には、自分に対する過度な要求による負荷が存在します。そしてこの負荷は、外部から押し付けられている、あるいは、自分のなかから生じる強迫的な観念となっています。このような負荷は、プレッシャーやストレスとなり、このストレスを受けている自己は、他律的で、本来の自己を喪失した非自己になります。

このような状態は、無理をしている状態であり、長くは続きません。遅からず、その負荷から逃げ出したいという欲求が生じるようになります。そしてこれを可能にするのが、リラックスと呼ばれる行為なのです。

リラックス行為は、時間的、空間的にそれまでの脈絡から隔離され、何か単一の対象に集中し、それで意識を満たすことによって、自己意識を忘却させるます。これは、まさに日常の要求の連続からの逃避、安全領域への退避です。この退避によって、一時的にであれ、日常のストレスを打ち消し、圧力のかかり続けていた精神をリセットすることができます。

この一時的な退避は、自己意識の忘却であり、没我であるため、それを行なっている状態も、過負荷状態と同じく、非自己であることになります。それは、いわば、一時的な空白を自分に作り出すことといえるでしょう。では、この空白はどのようか効果を自分にもたらすのでしょうか。

 

リラックスの効果

もっともよくあるケースは、一旦、負荷をリセットするという効果があるでしょう。かかり続けていた負荷、プレッシャーを一度忘れ、リフレッシュする。そして、再び、日常に戻る。おそらくこのパターンのリラックスが最も一般的でしょう。お酒を飲んで、疲れを飛ばすといったこともこれに該当するでしょう。これは、リラックスによる空白により、精神的な負荷を一時的に緩和することが目的です。

もう一つのケースとしては、一旦ストレスから解放され、空白になることで、自分が、他律的で、自分を失った状態であることを自覚するようになるということです。たとえば、「なんで私は、こんなことをやっているんだろう」といった疑問を抱くようになるといったことです。

このような他律性の自覚は、同時に、自分自身を取り戻すことでもあります。ふと我に返るという表現が、これに近いでしょう。自分を取り戻すことは、自律性を取り戻すことです。そうして、今までの疑うことなく過ごしていた日常を新たな視点で捉え直し、自らの意志で自律的に日常を作り直していくきっかけにもなるかもしれません。

 

まとめ

このように、リラックスは、自分を日常の過剰な要求から、自分を避難させ、空白を作り出すこと、そして、その空白によって、精神的な回復を得ること、あるいは、その空白から自律性を自分の中に回復させること、といった効果があります。このようなリラックスによって、人は日常の喧騒に対抗しているといえるでしょう。

今回、情報と個人の関係について、いささか議論を脱線させつつ詳細に論じましたが、この問題は引き続き考える必要があると思います。そのため、今後の哲学チャンネルやこのブログにおいて、扱っていこうと思います。