この記事では、人間関係について考察する。
なぜ人間関係について考えるかというと、人間関係における遠近感、距離感に、私がしばしば混乱するからである。そこまで考える必要もなく、なんとなく適度な関係を結べる人は、このようなことを考えておく必要はないのだろう。しかし、おそらく哲学に興味をもつような人間は、日常のなんとなくで済ませている事柄をきちんと整理をしたがる傾向にあると思う。そういった、いわば、哲学的な神経質さがあるがゆえに、こういったことをしっかりと考えて、納得いく地盤を作っておきたいと思うのだろう。
人間関係の前提
人間関係の名称
人間関係には、さまざまな名称が存在する。家族、恋人、友人、知り合い、同僚、他人などである。これらの名称は、人間関係の社会的な意味を表すと同時に、その人間関係の性質を表してもいる。とくに、人間関係の深さ、親密度を表している。
これらを人間関係のカテゴリーと以下呼ぶ。
対他行為と人間関係
人は人に何かをしあう。それは、挨拶であったり、プロポーズであったりする。人が人に何かをすることを、以下、対他行為と呼ぶ。この対他行為には、労力・コストがかかる。
このコストゆえに、人は万人に対して、無償で対他行為をするわけにはいかない。基本的には、対他行為をする際には、金銭を代わりに受け取る。社会ではこのような関係が多いだろう。このような関係性は、基本的には、他人である。
それに対し、何かを無償で行う関係性がある。それは、家族や友人などである。家族であれば、対他行為に対して、金銭的なやりとりをすることはほとんどないだろう。
そんな無償で対他行為を行う人間関係においても、その関係性によって、相手に対してどの程度のことをすればよいのかが変わってくる。家族や恋人、親しい友人に手料理を振る舞うことはあっても、知り合いに振る舞うことはまずないだろう。
したがって、親密度の異なる人間関係のカテゴリーでは、どのような対他行為を行うべきなのかが異なる。ゆえに、カテゴリーに応じた人間関係の基本的なあり方、対応の仕方について考える必要がある。この際、個別の対他行為を行うか否かということが論争になるとしても(たとえば、親なら子に手料理を作るべきか否か)、考察するべきはその原則である。いわば、それぞれの人間関係のカテゴリーに対するスタンスのようなものを考える必要がある。
人間関係のスタンス
上述した原則的なスタンスを四つに分けて論じる。それぞれの人間関係は、このそれぞれのスタンスのどれを主たるものとするのかによって異なるだろう。もっとも、常に一つのスタンスであるわけではなく、時によって、別のスタンスをとることもあるだろう。あくまでもどれを中心とするかである。
1, お互いに相手の利益のために行動する
例:家族、恋人、親友など
相手の利益を考え、それを中心に行動する。利他的な行動。相手の利益・幸福を、自分の利益・幸福以上に望む。
つまり、相手の利益を自分の利益より優先させる。
2, 自分の利益と相手の利益が合致していることを行う
例:友人・同僚など
相手の利益を考えるが、自分の利益も同時に考える。あくまでも、自分の利益に適う限りにおいて、相手に利益を与える。
自分の利益を優先的には考えるが、相手の利益も自分の利益と同等に考える。
3, 自分の利益のため、かつ、相手の不利益にならないことを行う
例:知人、同僚、他人など
自分の利益のために行動するが、その行動によって、相手に不利益を与えないかを考慮する。
自分の利益を優先し、行動するが、相手の不利益を考慮する。
4, 自分の利益のためならば、相手の不利益になることも行う
例:敵対者、無関心な相手
自己の利益を実現する際に、相手のことは考慮に入れない。
自分の利益をいかなる場合においても優先する。
望ましい関係
親密な関係の場合
1の関係は、家族などにおいては、望ましいだろう。ただし、常に相手の利益のみを考え、利己心を持たずに生きることは、不可能だし、疲れてしまうだろう。
よって、根本的な態度として、1を持ちつつ、ときには、2、3のように自分を優先することが大事だろう。重要なのは、自分の軸として立ち返るべき態度が1であることだ。とくに、親の犠牲が説かれがちな親子関係は、そうであろう。
逆に、常に3や4の態度であるような家族、とくに夫婦は、もはや有名無実な関係だろう。
社会的関係の場合
多くの社会的関係は、3であることが望ましいだろう。他人に対するマナーも、相手を害さないことを目的とされており、これに該当する。
2の態度も望ましいと思われるかもしれないが、自分の利益・幸福は自分で追求するという原則を維持することが望ましいように思われる。また、適度に相手に無関心であること=相手の利益を勘定しすぎないことが、むしろ社会全体にプラスに働くものと思われる。とくに、嫌な学校・職場から抜け出せず、精神的に参ってしまうということが、社会で頻発している。そういった事象を減らすためには、社会的な人間関係をより自己利益中心的にしたほうが良いと思う。
もっとも、これも時代の変遷による社会形態の変化に応じて、すでに生じていることだろう。かつての企業では、「会社は家族だ」といったような考えが主流だったのだろう。また、店と客の関係も、常連客との会話などより親密なものだったのだろう。それはそれで、当時の社会では機能していたのだろう。メリットも多くあるだろう。
しかし、それがもたらすデメリットもある。連帯や親密性には、固定化され息苦しくなった関係があるだろう。集団への連帯が強いということは、集団からの同調圧力が働きやすくなる。その結果、自己利益は集団の利益の犠牲にならざるをえないだろう。
現代は、より個人主義、つまり利己的な価値観が強まっている。それは、技術の進歩によって個人の力が強まったからかもしれないが、個人の力が強まったとしても、それは、個人に選択肢を与えたに過ぎない。かつてのように、緊密な連帯感のもとに属することだって選べたはずだ。
しかし、時代はより個人主義、利己主義へと向かっている。ということは、人はおそらく利己性を選択したのだろう。つまり、人間の本質的に、集団からの自由が可能になれば、そちらを選ぶということだ。であるならば、2のスタンスを社会的関係に対して保つことは、ストレスがかかるだろう。よって、3のスタンスがよりよいことになる。
利己性の善悪の基準
利己的であることは、すなわち悪ではない。人は皆、利己的であり自分の幸福を求めている。
問題は、利己の追求がどの程度まで及ぶかである。この利己の追求が無制限となり、他人の不利益も考慮しないとなると、それは、有害な利己性となる。
しかし、難しいのは、この不利益をどのように捉えるかである。おそらく、この不利益は、二つの種類がある。一つは、現にある他者の利益に対して、不利益をもたらすことで、もう一つは得られる可能性のある利益に対して不利益をもたらすことだろう。
現にある他者の利益に対して不利益をもたらすことは、おそらく正当化され得ない。現にある利益は、他者の所有物であり、他者はこれに権利をもっている。この権利を侵害してまで利益を追求することは許されない。
もう一つの利益の可能性においては、話は変わる。競争によってもたらされる利益の場合、正当な競争によってもたらされた自己の利益と、他人の不利益は、許容されるべきだろう。
正当な競争とは、自己の利益追求のプロセスが正当であることだろう。プロセスが正当であるということは、つまり、利益追求の過程で、自己と他者が公平であるということだ。公平である、つまり同じ条件で自己と他者が自己利益の追求を行い、その結果自分が利益を得た場合は、それを正当であるとみなすべきだろう。
J・ロールズなどがこの公平性について論じている。より詳細な議論は、別の記事に譲る。
まとめ
人間関係について、カテゴリーに分けて考えた。その結果、最も親密な関係と、社会的な関係を重視することが、個人の生活においても、社会的にもより良いのではないかという結論となった。