公共の場の性質の変化 —公共の場でのテロと迷惑系に関する考察—

この記事では、公共の場とは何か、公共の場がどのように変化しているのかついて考え、公共の場とテロの関係、公共の場からテロがなくなり、迷惑系が出現するメカニズムについて考える。

 

公共の場の変化

近年、公共の場の性質が変化している。

公共の場とは、たとえば、電車のなかや、道端などの不特定多数の互いに見知らぬ人々が多く存在する場所のことである。そして、そこにいる人々のまとまりを「集団」とここでは呼ぶこととする。

この公共の場が変化してきている原因は、

1、集団の性質が変化したこと

2、集団に対する個人の捉え方が変化したこと

にあるだろう。

集団は個人によって構成されており、個人が変わると集団が変わり、集団が変わるとその影響を受けて、個人が変わる。このように、1と2は循環的な構造になっている。

変化の原因

集団はなぜ・どのように変化したのか。

まず、集団を構成する人が変化した。最も顕著な変化は、外国人の増加である。首都圏や観光地だけでなく、地方都市においても、外国人を見かけることが増えた。外国人が集団内に増えれば、集団は変化し、集団内の他の個人の集団に対する見方も変わる。

次に、ライフスタイルの多様化である。かつては、公共の場を行き来する人々がどのような人であるのか分かりやすかった。たとえば、通勤通学をする人や主婦の人、観光客などである。

しかし、ライフスタイルの多様化によって、公共の場を利用する人がどのような人なのか、何を目的としているのかが分かりにくくなった。特に、コロナの流行を経て、在宅ワークの人や、オフピークの人が増えた。そのため、以前ほど、人々が共通の生活パターンをもってはおらず、公共の場にいる人々も、その人がどのような人なのかが分かりにくくなった。また、インターネットコンテンツの発展により、以前に比べ、時間や場所に自由な仕事が増えたことも要因であろう。

これらの要因の結果として、公共の場にいる人々が、以前に比べ多様化し、互いにどのような人間なのかが分かりにくくなっている。

かつてであれば、公共の場には、同じようなライフスタイルをもつ、同じような人々が形成する集団が存在し、その集団の一部である個人が、その「同じ」を共有しているという感覚が強かった。しかし、こうした要因により、集団は同じでなくなりつつあり、同じであるという感覚も低下しつつある。

変化の結果

このように、公共の場の集団の同質性が低下することで、その集団を構成する個人は、その集団を「同じ人たち」であると見做せなくなる。

集団を同じ人たちであると考えるということは、集団を一つの塊のようなものとして捉えるということである。たとえば、同じ空間に、同じ学校の生徒のみがいれば、彼らは自分たちの集団を、一つの同じ集団として捉えるだろう。ここに、さまざまな学校の生徒が入り交じれば、同じ学生であるという感覚はあるだろうが、一つの同じ集団であるという感覚は薄れるだろう。このように、集団の同質性が低下すると、同じ集団であると言う感覚、いわば一体感も低下する。

この一体感の低下が、上記の原因により、もはや「同じ人たち」と見做せないレベルにまで進むと、集団は、集団としてまとめることが不可能な個々の集合体となる。

要するに、単に知らない人が多くいるだけの空間になる。

 

テロと公共の場

なぜテロが公共の場で起きるのか

現在は低下しているが、かつて、公共の場の集団には、現在より高い同質性があった。集団内の人々は、同質であり、自らを同質であると考えていた。

彼らが共有していた同じものとは、同じような生活・ライフスタイルであり、社会の一員であるということである。つまり、公共の場は、そのような社会の一員が構成する場であり、社会の一員の集合体であった。これはすなわち、社会そのものであるといえるのである。

このような社会そのもの、あるいは社会の象徴としての集団は、社会の内部と外部を分ける集団でもある。なぜなら、強い同質性をもった集団は、その集団の内部と外部をはっきりと区別し、その集団の外部を疎外するからである。いわば、その集団に属していれば、社会の一員であり、属していなければ社会から外れているという境界線的な役割をもっていたのである。

そのため、社会から疎外されていると感じ、社会に恨みをもった人物、すなわちテロリストは、社会の象徴である公共の場を標的としたテロを行い、その集団に復讐をしようとするのである。

それと同時に、テロリストは、同質性によって塊となっている集団を、テロの暴力によって、個人に解体しようともしている。

通常、公共の場に存在する個人は、同じ社会の一員であるという同質性によって、集団であると意識している。そこにテロが発生すると、集団としての意識以前の、自己を防衛する本能が呼び覚まされる。つまり、公共の場に存在する人々は、自分たちが集団であるという意識を捨て、いかに自分が助かるかという個人レベルの意識に引き戻されるのである。

このように、テロによって、公共の場は、社会の象徴から個人に解体され、同時に、個人の意識は、集団に属しているというものから、個人の生存本能へと切り替わる。テロリストは、公共の場を攻撃することによって、社会への復讐を果たすと同時に、人々の連帯感が生み出している社会が崩壊する様を間近で見ることを欲するのであろう。

それゆえに、社会に対して敵対心を持つ人々が標的にし、テロを起こすのは、公共の場になるのである。

公共の場でのテロが減少する理由

社会の象徴、あるいは社会そのものとされた公共の場は、その成員が社会の一員であるという自意識と相互認識によって成り立っていた。

だが、時代の変化によって、集団の同質性が崩れると、集団の成員が自らを同じ集団であると見做すことができなくなる。つまり、集団は、社会の一員であることを共有できなくなり、公共の場は、社会の象徴ではなくなる。

公共の場が社会の象徴でなくなると、社会に敵意をもつテロリストが、公共の場を攻撃する理由もなくなる。また、集団がバラバラな個人であるならば、集団を個人レベルに解体する必要もない。

そして、そもそも、社会そのものを象徴するようなものが、公共の場以外にないとすれば、社会という概念を顕在化させるようなものがどこにもないことになる。とすれば、「社会」という言葉は抽象的な観念にすぎなくなり、社会からの疎外や社会に対する敵意といった、「社会」への感情が存在し得なくなるだろう。

 

迷惑系の誕生

では、公共の場はどうなるのか。

同じような人々が構成する集団ではなく、バラバラな個人が存在するだけとなった公共の場では、個人が集団の連帯性から自由になる。つまり、かつて集団の連帯性とそれに伴う同調圧力の下にあった個人が、それらから解放されることになる。

すると、個人は公共の場で、自らの利益のみを追求するようになる。要するに、やりたい放題になる。

おそらく、すでに公共の場のマナーは悪くなり始めているだろう。そして、同時に公共の場を私的に利用する人間が現れ始める。その一部が「迷惑系」と呼ばれる人々である。彼らは、公共の場で奇妙な行動をすることで、SNS上での注目を集めようとする。

彼らは、個人的利益のために、公共の場を利用している。これはすなわち、公共の場において、集団としての意識をもたず、個人であり続けているということである。したがって、彼らの意識はすでに、公共の場に存在する集団を、自分と同じであるとは見做していないのである。

 

まとめ

こうした公共の場における同質な集団の解体は、社会が一つの総体であるという観念を解体し、個人を社会からの疎外から解放するだろう。その結果として、社会からの疎外を原因としたテロも減る。これは、望ましいことであるといえる。

一方で、同質性と同調圧力による相互監視社会を長らく生きてきた日本人が、解放された個人主体の社会に適応できるのか、その結果何が起きるのかは未知である。迷惑系とは、元来、社会の同質性に馴染まない一部の人々であり、彼らの登場は、同質性の崩壊の序章にすぎないだろう。

極端に考えれば、このまま社会から秩序が失われ、全員が迷惑系と化すこともありうるのである。そうなった場合、社会から疎外された人々による社会への敵視から行われるテロではなく、単なる快楽のためのテロが発生することも可能性としてはありうるだろう。

これから、社会はどうなるのか、この同質性の崩壊がそのまま進むのか、進んだとして大多数の従来型の社会に慣れた人々はどう変化するのかについて、これからも社会を観察しつつ考えたい。