今回からは、プラトンについて扱っていく。プラトンは、哲学史上、おそらく最も重要な哲学者であり、「西洋哲学はプラトンの注釈である」(1-1)とまでいわれるほどである。
そんなプラトンの著作は25巻を超え(1-2)、分野も多岐にわたる。そして、そのそれぞれが後の哲学の原型となっている。そのため、西洋哲学の基盤といえるだろう。
今回はプラトンの導入編ということで、プラトンがどのような人物で、どのような人生を歩んだのかを概観する。
プラトンの生まれ
生まれと時代背景
生まれ
プラトンは、紀元前427年にギリシアのアテナイに生まれ、紀元前347年に亡くなる。
プラトンは、アテナイ屈指の名門貴族の家に生まれており、両親ともに古くから続くアテナイの名家出身である。特に、母親のペリクティオネは、先祖に「ソロンの身内であり友人でもあったドロピデス」がいる(2-1)。ソロン(前630-560年頃)といえば、政治家・法律家で、市民救済のための負債帳消しなどを行ったソロンの改革で知られる。彼は、ギリシアの七賢人であり歴史上重要な人物である。
そんな名家出身のプラトンの親戚には、当然アテナイの有力者が多く、その一例として、のちに独裁政権に参加したカルミデスやクリティアスも、彼の親戚であった。そんな名家の生まれであるプラトンは、当然のこととして、政治への参加を目指していた。
時代背景
プラトンが生まれる年(前427)の4年前(前431)に、ペロポネソス戦争が始まった。ペロポネソス戦争とは、プラトンの母国であるアテナイとスパルタの戦争であり、以後30年近く続いた。この間に、有力政治家のペリクレスが死亡し、扇動家による衆愚政治が蔓延り、同盟国が離反するなどし、アテナイは衰弱した。結局、紀元前404年にアテナイの全面降伏で終戦を迎える。この年にプラトンは、23歳であった。
戦争終結後も、問題が多発する。上記したプラトンの親戚らが独裁政権を誕生させ、民主制を転覆させるも、恐怖政治となり反発を招き、短期間で瓦解する。そして、民主制に戻ると、反民主制に関わったプラトンの親戚らは処刑され、同様にアテナイを混乱に陥れたとしてソクラテスが前399年に死刑判決を受け処刑された。
このような時代背景、特に親戚やソクラテスの処刑により、当初目指していた政治家への道にプラトンは困難を感じるようになる。事実、プラトンは、自身の書簡でこう述べている。
「こうした出来事や政治に関わっている人たち(中略)を見れば見るほど、(中略)正しい政治を行うことが、私にはいっそう困難なことに思われてきたのである」『第七書簡』
こうしてプラトンは、政治参加とは別の道を歩むことになる。
プラトンのソクラテスとの出会い・影響
ソクラテスは政治参加を極力控え、広場に出て市民たちと議論をした。その議論は、裁判の話や子供の教育の話など具体的なことから始まり、徐々に、では「正義とは何か」とか「徳とは何か」といった話へと発展した。詳しくはソクラテスの回を読んでいただきたい。
プラトンはそんなソクラテスに出会い、その議論を目にすることで、自分自身を振り返ることになる。プラトンの目指したのは政治家であった。そして、その政治家とは、国家を良い方向へと導くことだ。では、そもそも「善い」とは何なのか知らなければ、そんなことはできないだろうと思い至る。そもそも、当時の政治が対立していたのも、個々の正義が異なっていたからであろう。
こうして、プラトンは混迷を極める政治的状況の中で、政治からは距離を置き、ソクラテスの残した謎を解くべく注力することになる。
その具体的な方法とは、ソクラテスの言動やその議論を再現し、それを自分なりに問い深めるための「対話篇」と呼ばれる著作を著すことであり、ともにその問題を議論・研究する仲間を集うことだった。
著作の開始とアカデメイア開設
アカデメイア
こうして、プラトンは、紀元前387年頃、40歳でアテナイ郊外のアカデメイアの地に学園を開く。それはアカデメイアと呼ばれ、後にアカデミーやアカデミックという言葉の語源になる。このアカデメイアは、その後も哲学のみならず、学問研究の中心地であり続け、紀元後529年まで、900年以上にわたって存続することになる。
アカデメイアでは、仲間や弟子たちとともに、哲学の研究がなされた。この研究とは、理想の政治を目指すために、ソクラテスが人々との対話において実践的に探求した「善とは何か」を、学問的に研究するものであった。また、個々の変化していく世界から、その本質的な原理を見抜く力をつけるために、数学の研究にも力を入れていた。実際、有名なユークリッドの『幾何学原論』の大部分は、アカデメイアの業績が占めている(4-1)。
アカデメイアは実際に、多くの政治家や法律家を輩出している。しかし、なによりプラトンに並び歴史に残る哲学者となる、アリストテレスを輩出したことが最も有名である。
プラトンの著作の特徴・対話篇という形式
プラトンは、ソクラテスが死刑になったあと、おそらく30歳ごろから著作を書き始め、80歳で亡くなるまで続けた。古代の著作家にはめずらしく、弟子たちが写本し、保存しつづけたため散逸した作品が一つもない。現在残っている作品が44作あるが、真作は25−27作ほどといわれ、その真偽は未だ議論中である。
書簡を除く全ての著作は、対話篇と呼ばれる戯曲形式で、登場人物の会話によって進められていく形式である。もっとも、その内容は通常の悲劇や喜劇のような戯曲ではなく、哲学的な議論を登場人物が行うものである。大抵の作品において主人公はソクラテスであり、彼が議論を先導していく。筆者であるプラトンは言葉を発する役として登場することは一切なく、その名前のみが『弁明』等にわずかに登場するのみである。
そのため、著作のなかでソクラテスが語る思想が、ソクラテス自身のものなのか、それともプラトンが語らせているものなのかがはっきり区別できない。おそらく、プラトンは、ソクラテスの言動を基盤とし、そこから問うべき内容を引き出し、自分なりの思想を打ち出していくという過程があったのだろうと想像される。そのため、プラトンの初期作品はよりそのままのソクラテスに近く、後期になるにつれ、プラトンの思想が打ち出されるとされている。
また、プラトンの対話篇はそのテーマの共通性が、おおむねプラトンの年齢と対応しているとされ、30代の作品を初期、40代以降を中期、60代以降を後期とする分類が一般的である。
まとめ
以上が、プラトンについての基本的な事項である。次の回から、プラトンの著作に基づきながら、その哲学的思想について扱っていく。
注釈
(1-1) A・N・ホワイトヘッドの”The safest general characterization of the European philosophical tradition is that it consists of a series of footnotes to Plato.”より(『過程と実在』Part2, Chapter1, Section1)。日本語では「西洋哲学の伝統の最も確かで一般的な性格とは、それが一連のプラトンに対する注釈からなっているということである」と訳せる。
(1-2) プラトン全集自体は36作を収録するが、明らかな偽作が含まれており、それらを除くと25−27作といわれるが、未だ結論は出ていない。(『哲学の饗宴』 p.71)
(2-1)『哲学の歴史1』p.413
(4-1) 『哲学の歴史1』 p.423
参考文献
原典(一次資料):
『第七書簡』
岩波書店のプラトン全集では、14巻に収録されている。
研究書(二次資料):
書籍
荻野弘之 『哲学の饗宴』 NHK出版 2003年
内山勝利他 『哲学の歴史1』 中央公論新社 2008年
クラウス・リーゼンフーバー 『西洋古代・中世哲学史』 平凡社 2000年
内山勝利 『哲学の初源へ ギリシア思想論集』 世界思想社 2002年
webサイト
Stanford Encyclopedia of Philosophy
https://plato.stanford.edu/entries/plato/
英語版wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Plato