哲学チャンネルep.19-20 初夢を哲学する

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初めに

年が明けて、もうすぐ一ヶ月が経ちますが、今回の哲学チャンネルのテーマは、新春らしい初夢についてです。

初夢といえば、一富士、二鷹、三茄子でしょう。これは、この夢を見ると縁起がいいという三つのものですが、私はいまだにこの三つを初夢どころか、普通の夢ですら見たことがありません。このめでたいものセットは、もう古いのかもしれません。というより、今も昔も、なすびの夢なんて見ることはあるのでしょうか。

今で言ったらなんでしょうか。めでたいとされている今風のものを考えてみましたが、あんまり思いつきません。なので「めでたいもの」と検索してみたら、縁起物として、招き猫やだるま、扇子、お札や御朱印といったものが挙げられていました。どうもこれらは古風な感じがします。どうやら、めでたいものや縁起の良いものは、歴史があるものなのかもしれません。これらもまた、夢には出てこなさそうです。

とういことで、「夢 縁起いい」と検索したところ、お菓子や麺を食べて太る夢とか、虹の夢とか、白色のものが出てくる夢とか、なんとなく縁起の良さそうのものから、喧嘩するとか、地震・火事に遭うとか、死ぬとかいった普通は縁起が悪そうに思えるものもありました。それらの縁起がいい理由は、死や火事は、良くない状況からの脱却と再生のようなものを意味しているからということらしいです。個人的には、目が覚めた後に、後味がよく、前向きになれる夢がいいような気がします。

さて、いずれにせよ、夢にはなんらかの意味があるということは、古今東西で言われてきたことです。夢で神からお告げを受けるということは、神話や物語でよくあるテーマです。このような、夢には、何か特別な起きている間には見ることのできないものが現れており、いわば別の世界と繋がっているという考えを拡張し、より論理的に洗練した理論が今回扱ったフロイトを初めとする精神分析です。

よくわからないもの・カオスの発見

ショーペンハウアー(1788-1860)について

夢のなかとは、現実とは異なる別の世界なのではないか。仮にそうだとしたら、その別の世界とは一体なんなのか。それは、普段は抑圧され表に出てこない情動が現れた世界である。このように、フロイトは考えます。そして、この抑圧された情動が無意識であり、この無意識が、実は人を動かしているというのです。

このような個人の意識・無意識の概念の先駆者として、なにかはっきりと理解できないものが、きっちりと整然とした世界の根底にあって、その理解できない無秩序なものこそが、世界を動かすエネルギーである、と考えた哲学者がいました。それはフロイトよりも前の哲学者、ショーペンハウアーです。

ショーペンハウアーは、世界を表象と意志に分けます。これは世界の表と裏のような関係にあります。表の世界である表象とは、感覚を通して与えられる対象という意味です。たとえば、赤くて丸いくて美味しいという感覚を通して、りんごというイメージ=表象が与えられるみたいな感じです。この表象の世界は、目に見え、それについて考えることができる整然と区別された理性的な世界です。

これに対して、ショーペンハウアーは、無秩序で根源的な意志が世界には存在するとします。この根本的な意志は、表の世界である表象の世界には出てきません。つまり、それは見ることも触ることもできないため、どうやってもそれを認識できず、哲学はおろか、学問の対象にはならないのです。このような意志が、無秩序に、無目的に世界を動かしているとします。そして、それが世界を動かしている以上、世界にとってより重要で、決定的な要因を担っているのは、こっちの意志の方だとするのです。

この世界の構造は、そのまま人間に反映されます。すなわち、この世界の構造が人間に対して与えられるということです。一方の表象としての世界は、人間の意識に与えられます。普段見慣れた秩序だった世界がこれです。そして、もう一方の世界の意志は、それが意識ではなく、人間の意志に対して与えられます。これは、身体を通して与えられ、身体感覚や感情として発現します。そのため、世界の意志と同様に、個人の意志も明確には意識できません。この明確に意識できない意志である身体感覚や感情、気分といったものが個人を動かすことになるのです。

ショーペンハウアーは、このようなよくわからない意志の力によって人間は動かされると考えるため、究極的には、人間は自分の行動をコントロールできず、ただ踊らされているだけに過ぎないという、極端な悲観主義に帰結します。この悲観的な世界観を如実に表すたとえとして、「人間は荒れ狂う海の中で小舟に乗っていて必死にバランスをとっている」、というものがあります。この荒れ狂う海とは意志のことで、人間がそれを理性によって必死にコントロールしようとしているということです。ショーペンハウアーは、このような荒れ狂う海のような意志のもとに生きることは辛いため、それを忘れるために芸術の世界に逃避することを考えますが、結局は一時的に過ぎないため、仏教の解脱を勧め、生への意志を捨て、もう小舟が転覆してもいいやと開き直ることを最終的な解決策とするのです。

このように、無秩序で潜在的で無意識的なエネルギーという観念は、思想史的には悲観的な出発をしたのでした。これは思想史的には、この世界観は、当時のヨーロッパに支配的だったヘーゲル主義という、世界は理性的に進歩していきやがて完全な形へと完成に至るのだという思想に対するアンチテーゼでもあったのです。

ニーチェ(1844-1900)について

このショーペンハウアーから約50年後に、あの有名なニーチェが生まれます。このニーチェは、ショーペンハウアーとロマン派の作曲家として有名なワーグナーから大きな影響を受けます。ただショーペンハウアーと似たような世界観を共有しながらも、生を肯定する方向へと進みます。

ニーチェの思想の本質は、世界は特になんの意味もなく、そこに善悪もないけれど、それでも生きることを肯定するというところにあります。

ニーチェの有名な言葉として「神は死んだ」というものと「永劫回帰」というものがありますが、これはどちらも本質的には同じことを指しています。

神の死とは、キリスト教的な世界観・価値観の否定です。それはキリスト教的価値基準、たとえば、貧しいものほど幸福であるといったキリスト教の教義の否定を意味します。さらに、より根本的には、キリスト教の教義である世界の終末論とそこでの死からの復活を否定し、それゆえに、この世にはなんの意味もないんだとはっきりと断言してしまうのです。これは本当にキリスト教の根幹を否定している上に、すべての意味を否定する極端なニヒリズム(虚無主義)であったため、当時のヨーロッパ世界においては相当センセーショナルだったことでしょう。

この終末論と救済の否定は、終末も救済もなく、無目的にただ続いていく世界のみがあるということを意味します。このなんの意味もない世界を前提とし、さらにその無意味さと苦悩を自乗するため、それが無限に繰り返され続けることを想定するのが「永劫回帰」なのです。この無意味の永続という地獄のような世界を設定することで、究極的な無意味を想定するのです。このような無意味の牢獄の中で、それでもなお生きるためには、何かの目的のためではなく、ただ生きる、生を肯定するという根底的な意志が必要だといいます。

ここにニーチェのショーペンハウアーとの大きな違いがあります。ニーチェは生きる意志を力への意志と呼び、人間の根本的で本能的な意志だとします。そして、この意志は何の条件もなく人間にあり、無意味な世界をものともしないのです。ショーペンハウアーにとっては、人を翻弄し、苦しませるよくわからないものであった意志の力を、人間の根本的な生きる力へと書き換え、その無根拠であるがゆえに、世界の無意味を打ち破る力であるとしました。

自分の中のカオスとしての無意識

フロイト(1856-1939)について

さて、これまで紹介してきた思想は、無意味で無秩序な世界の中で、人はどのように生きれば良いのかという話に帰結しました。この思想の前提となる、無目的で無秩序なもの世界を動かしているということを共有しつつ、それを無意識として人間の心理に当てはめて考えたのが、フロイトです。

フロイトは、人は無意識によって動かされはするものの、それは理性によって抑圧され、秩序化された状態で表に出てくると考えます。そして普段は抑圧されている無意識が、夢の中で解放されるとします。普段とは、起きているときのことです。とくに想像しやすいのが、人前での振る舞いでしょう。たとえば、面接においては、求められる振る舞いをしなくてはならないことを強く意識します。背筋を伸ばしたり、言葉遣いに気をつけたり、普段はしないようなことをする必要があります。これは、自分を律し、型に押し込んでいるといえるでしょう。つまり、自分を制限しているということであり、抑圧されているといえます。

このように、なにか「本来の自分」のようなものがあり、これが社会的に抑圧を受けているということは、体感的にも納得がいくでしょう。しかし、一体「本来の自分」とは何なのか、つまり一体何が抑圧されているのでしょうか。この答えとして、フロイトは無意識が抑圧されているのだといいます。この無意識とは、ショーペンハウアーやニーチェが言うような盲目的に何かを動かす意志であるといえます。フロイトはこれを具体的には、リビドー(性的衝動)といいました。何か根本的で無意識的なものとして、確かにふさわしいような気がします。また、これは当時の社会が性に関して、抑圧的であったことも関係しているといわれています。

それが何であるかはともかく、人間には通常は押さえ込んでおかなくてはならない、非理性的な情動・衝動のようなものがあるということ、そしてそれが時として、夢や理性の働きが弱まったときに、たとえば飲酒時とかに、表に出てくるということは納得できるでしょう。そしてフロイトは夢を通して、神経症患者の無意識を探索し、普段は抑圧されていて直接的には意識に上ってこないものの、意識や行動に干渉し、日常生活を妨げるトラウマ的な記憶を見つけ、患者にそれを自覚させることで、神経症の治療を行なったのです。

以上の議論では、無意識とは抑制されるべきもののようですが、フロイトは、この抑圧と解放のバランスが大事だと言っています。人間が社会生活を営む上で、常に衝動的に生きていくことはできませんが、常に抑圧され続けていることもまたできません。無意識を無理やり抑え続けることで、通常の意識にも神経症として跳ね返ってきてしまうとフロイトは考えたのでした。

まとめ

以上で述べてきたような、何か無秩序で、コントロールのできないものに世界や自分が動かされているという考え方は、従来の西洋の伝統とは異なるものでした。もちろん、自然や人間のうちなる欲求をコントロールすることが難しいということは、古今東西言われていることではありますが、西洋の伝統としては、それらを理性によってコントロールし、全てをよりよく、明瞭に解明していこうという流れでした。つまり、こうした思想は、それまでの伝統からすれば異端であったわけです。

しかし、いまや「無意識にやってしまった」などと日常的に使われるほどに、こうした概念は浸透しています。これは、どういう意味で使われているのでしょうか。人間は自分をコントロールできないという自覚なのでしょうか。それとも自分の言動や人格に対する責任逃れのようなものなのでしょうか。いずれにせよ、自分の中にある自分ではコントロールできない疎遠なものが、意識的に、あるいはまさに無意識的に受け入れられているのは確かでしょう。そして、それがある程度、人の行動を決めていると考えられている。

では、この自分を動かしている根本は何なのか、ついついチョコレートに手が伸びてしまうのはなぜなのか。本当は自分の意思などなく、全てが無意識によって決められているのではないか。こんなことを考えていると、頭が痛くなり、眠れなくなります。なので、今やっていることの本来の目的を時々振り返るくらいにして、あまり考え過ぎないようにした方がいい夢が見られそうです。

参考文献

この本はわかりやすくて、おすすめです。