リベラルと保守を優等生とヤンキーに見立てて今の時代を考える

リベラルとは優等生、あるいは学級委員長な思想で、保守とはヤンキー的な思想である、と考えると両者の対立について理解しやすくなるのではないかと思うので、それぞれについて論じる。

リベラル=優等生

リベラルは、個人の自由や権利を重視する思想である。個人とは、マイノリティを含めたあらゆる人々のことを指す。そのため、最近では、環境活動や多様性重視など、自由や権利が侵害されがちなマイノリティのための活動が目立っている。

こうした活動は、優等生がクラスで馴染めていない子に話しかけたり、からかう生徒を注意したりすることと似ている。要するにみんなで仲良くしようという優等生的な思想だ。

このようなリベラルの思想の根本には、理想主義がある。理想主義は、「あるべき理想の人間・社会」というものが先に想定されており、そのあるべき姿に人間や社会を変えていく必要があると考える。

こうした理想主義を掲げるリベラルは、理想の人間や社会を、あらゆる人や社会にとって正しい、すなわち普遍的に正しいと考える。それゆえ、リベラルはグローバリズムと相性がいいのである。

こうした、いわば理想主義の独裁的な側面を優等生もまたもっているといえるだろう。

 

保守主義=ヤンキー

保守主義は、歴史・伝統・民族を重視することが根幹にある。そのため、急激な社会変化を嫌う傾向にあり、最近では移民や多文化主義への反発が目立っている。

これは自分たちのグループの文化やルールを大事にするという点で、ヤンキー的である。ヤンキーは、既存の仲間を守ることを最優先にし、よそものに対しては厳しい。つまり、自分たちと他の人たちをしっかりと区別する。

このような保守主義の根本は、現実主義である。現実主義とは、まず現実を先に考え、そこからあるべき社会を考える。つまり、現状を理想より優先する。そのため、個々に異なる現実を重視するため、共通の善ではなく、個々の文化や社会ごとに異なる善があると考える。ゆえに、グローバリズムとは、相性が悪い。

ヤンキーもまた、自分たちの仲間やルールを第一にし、そのためなら社会のルールを破ることも厭わない。つまり、共通性や外側に対して、内側を守ろうとする。時としてそれは暴力的にもなる。

 

リベラルと保守の関係

優等生とヤンキーが本質的に相容れないように、理想主義のリベラルと現実主義の保守は対立し合う。それは、水と油のように、性質的に相容れないからだ。人がリベラルになるか保守になるかは、生まれながらの気質によって左右されると考えてよいだろう。それは、優等生になるか、ヤンキーになるかを、人が選ぶわけではないのと同じである。

また、多くの人は、極端な優等生でもなければ、ヤンキーでもない。その中間である。人によって、どちら側に寄っているは異なるが、基本的には、その時の状況次第で、どちらにでもなりうるだろう。理想主義が行き過ぎれば、現実主義になるし、その逆もしかりである。

理想と現実のどちらを重視するにしても、もう片方を軽視することはできない。なぜなら、現実を軽視して、理想を追い過ぎれば、夢物語になり、理想を軽視して、現実を重視しすぎると、社会問題が放置されるからだ。つまり、どちらも行きすぎると問題になるということである。

したがって、重要なのはバランスになる。どちらかに傾くと、反対側の揺り戻しが生じる。そのときの社会が、リベラルと保守のどちらを望むのかは、その社会の理想主義と現実主義のバランスがどうであるかによるだろう。

 

保守を求める今の時代

今の時代は、保守に傾きつつあるといえるだろう。その要因はさまざまあるだろうが、根本的には、理想主義のさまざまな主張に対して、嫌気がさしているからであると思われる。要は、優等生的なウザさが鼻についているのである。

理想主義が行き過ぎると、現実で問題が生じることになる。たとえば、性的マイノリティに配慮した結果、公共トイレの問題が発生したり、人道問題に配慮した結果、移民による治安の悪化が起きたりしている。これは、理想主義的なリベラルが生み出した現実における問題だろう。

現実は常に複雑に推移する。理想は頭の中で考えたことであり、現実では、思いもよらないことが発生することがある。理想のための改革が、思わぬ多くの副作用を社会にもたらすと、多くの人は、反対側の保守の意見に賛同するようになると考えられる。問題はそのバランス感覚なのだろう。