『りんごかもしれない』を哲学的に考えてみる【書評】

ヨシタケシンスケ著の絵本『りんごかもしれない』を読んだ。

この絵本は、絵が可愛く、発想が面白いため、子供から大人まで楽しめる。また、読み返すたびに発見があるのだ。

そんな『りんごかもしれない』を、ここでは哲学的に読んでみようと思う。

 

 

『りんごかもしれない』の内容

この絵本は、まず、男の子がテーブルの上にあるりんごを見つけ、そのりんごが実はりんごではないかもしれないと考えるところから始まる。

男の子は、そのりんごが、「実は〇〇かもしれない」と空想していき、空想の中でりんごはさまざまなものに形を変える。

まず、りんごが別のものなのではないかと考える。たとえば、大きなさくらんぼの一部かもしれないと考えたり、中にゼリーが入っているかもしれないと考えたりする。

そして、りんごが別の何かになるのではないかと考える。たとえば、りんごが本当は卵で何かが生まれるのではないかと考えたり、りんごが人の住める家になるのではないかと考える。

また、男の子は、りんごの髪型や帽子について考えたり、りんごがなりたがっているものがあるのではないかと考えたりする。そして、りんごが感覚や感情をもっているのではないか、家族や友達がいるのではないかとも考える。

さらに、そのりんごがどこからきたのか、そしてどこへ行くのかを考える。

もしかしたら、実は自分以外みんなりんごなのかもしれないと考えたり、自分がりんごにされてしまうのではないかと考えたりもする。

最後に、自分がりんごを食べた後のことを考える。そして、お母さんにりんごを「食べられるか」を聞いて、りんごをたべる。そして、男の子は、りんごがおいしいと知る。

 

登場する「かもしれない」ものを哲学的に読む

りんごは男の子の想像のなかでさまざまな別のものに変化する。違う中身だったり、成長して家になったりする。

こうした一見りんごに見えるが、りんごでない何かを色々と想像するためには、まず様々なりんごの側面を捉えないといけない。そして、それらのさまざまな側面からりんごでない何かを考える必要がある。

つまり、りんごかもしれないりんごでない何かを考えるためには、りんごを色々な角度から捉えることが必要なのである。そして、この絵本に登場するりんごの捉え方を哲学的に考えることができる。

四原因説

りんごが別の何かかもしれないと考えること、別の何かになるのではないかと考えること、りんごがどこから来て、どこへ行くのかを考えることは、アリストテレスの四原因説になぞらえて考えることができる。

アリストテレスは存在について、

・質量因:何からできているのか

・形相因:何であるのか

・始動因:運動・変化のきっかけは何か

・目的因:何を目指して変化するのか

の四つの原因があるとする。[1]そして、この絵本に登場するりんごとは別のものは、このアリストテレスの四つの分類に当てはめることができる。

まず、りんごを別の何かであると考えることは、りんごが何であるかという存在を問題にしている。たとえば、りんごがゼリーでできていると考えることは、りんごがゼリーという物質で形成されていると考えることである。これは、四原因説でいうところの、質量因になる。

また、りんごが、赤い魚であると考えることは、りんごではなく魚という別の概念の存在であると考えることである。これは、りんごが何であるのかを問題としているので、形相因になる。

次に、りんごが別のものになると考えることは、りんごが何になるのかという存在の変化を問題にしており、これは始動因目的因が当てはまる。

最後に、りんごがどこからきて、どこへ行くのかを考えることは、りんごの起源と目的を考えることである。これも、始動因目的因が当てはまる。

このように、りんごを様々な角度からみる方法が、哲学的であるともいえるのである。

自他の境界

男の子は、りんごの髪型、感情、家族や友人を考える。このことは、自分の視点からりんごについて考えているということである。つまり、りんごを自分の延長として、人間として考えている。

これは、人間以外のもの、たとえば物質の運動や動物などを、人間であるかのように考えることであり、人間の思考の傾向である。このような何かを観測する立場である人間の思考が、観測対象に及ぼす影響は、認識論や科学哲学的な問題である。

さらに、男の子は、自分以外がりんごなのかもしれないと考えたり、自分がりんごになってしまうのではないかと考える。これは、りんごを自分の延長として考えるのではなく、逆に、自分をりんごの延長として考えているということだ。

これは、自分が相手になるかもしれないという想定であり、この想定は相手の立場になって考えるために重要である。倫理学的には、自分が相手と同じ立場であったときにも許容可能な制度・ルール・関係を作ることが公正であるために必要であると考えられる。

 

「かもしれない」と考えることを哲学する

知ることと想像すること

男の子は、最初、テーブルの上のりんごを見ながら、そのりんごについて考えている。このとき、男の子はりんごが「見えている」だけだ。それも、正確に言うと、りんごの一面だけが見えている状態だ。つまり、男の子には、見えているところ以外のりんごがどうなっているかがわからない。実際に、裏側はみかんかもしれないし、中身はゼリーかもしれないのだ。

この未知の状態は、男の子がりんごを持ち上げ、匂いをかぎ、食べることで消滅する。男の子は、それが男の子の知っているりんごであることを、手に取り、匂いをかぎ、食べることで知るのである。

つまり、男の子はりんごについて知らなかったから、「かもしれない」と想像できたのである。ということは、知るとこと想像することは、相反する関係にあるといえるだろう。何かについて知ってしまえば、それについて想像する余地がなくなる。それは、「かもしれない」から「そうである」に変わってしまうのである。

したがって、何かを知るということは、それが何であるかを確定させることであり、それが何であるかの可能性を狭めることであるとも言えるかもしれない。

想像による繋ぎ直し

大人になるにつれて、色々なことを知っていく。そうして、常識ができていくのだが、「常識に囚われる」という言葉があるように、それは、可能性を狭めることでもある。

りんごをりんご「である」と知っていれば、りんご「かもしれない」と疑い、色々な可能性について想像することは必要なくなる。なぜなら、それが何であるのかを知っているということは、その対象に対して思い浮かべることが固定されているということだからである。りんごを見たら、すでに知っている甘酸っぱいりんごのみを思い浮かべるのである。つまり、頭の中と対象が一対一で結びついているのである。

この知による一対一の結びつきは、日常生活では便利だろう。一々それが何なのかを考えなくて済むからだ。

しかし、そのような固定された結びつきは、アイデアを出す場面や、日常の困難を解決する場面では、妨げになるだろう。なぜなら、そういった場面では、今までの結びつきを壊して、新しい発想が求められるからである。

たとえば、iPhoneがかつての携帯の常識を壊したように、斬新な発想は、固定された思考の結びつきを超えたところにある。また、日常の困難は、何度やってもうまくいかないといった思考の固定が原因かもしれない。

このような思考の固定された結びつきをほぐすため、この絵本の男の子のように、「そうでないかもしれない」と立ち止まって、想像することが大事であるといえるだろう。

 

まとめ

以上、この絵本を哲学的に読んでみた。

ただし、この読み方は、一つの可能性にすぎない。この絵本を特定の読み方で固定してしまうことは、それこそ、これまでの話と矛盾してしまう。なので、この絵本は、哲学的なのかもしれないと言うに留めておこう。

 

注釈

[1]『形而上学 上』p.31