「学歴厨」という言葉が存在する。学歴厨とは、学歴至上主義で、学歴の高低で相手を判断し、見下してマウントをとったり、尊敬したりする人間を指す言葉である。比較的最近生まれたネット上のスラングのような言葉だ。
そもそも、学歴自体は昔から存在しており、ひと昔前のほうがその重要度は高かった。企業の採用においても、ひと昔前のほうが学歴を重視していた。最近では、さほど学歴を重要視しない企業も多いと聞く。また、インターネット上でさまざまな情報を入手でき、多くの人々とも交流できるようになった。最近では、AIの登場により、情報収集や自主学習も容易になった。その結果、大学はその存在意義を問われるようにまでなった。
つまり、大学に行くことに関して、かつてよりもその価値は下がったといえるだろうし、学歴にこだわる理由も減ったはずだ。それにもかかわらず、なぜ、最近になって学歴厨が生まれたのか。それについて、この記事では論じる。
統一的な価値尺度の消失
学歴にかつてほどの価値が実質的になくなったのと同様に、かつて価値があるとされていたさまざまなこともまた、その価値の絶対性が揺らいでいる。たとえば、いい大学を出て、一流企業に勤め、結婚し、子供をもつといったようなかつて「全ての人にとっての理想」とされていた人生プランは、現在では当てはまらなくなっているだろう。
それは、全員が同じ価値の尺度に則って生きることがなくなったからである。現代においては、個人によって重視する価値が異なり、個人がそれぞれ好きなように生きている。学歴を重視する人もいればそうでない人もいる。かつて、全ての人にとって価値があるとみなされていた学歴などの価値尺度は絶対的な地位を失い、人は何に価値を見出すのかを選ぶようになった。つまり、価値づける主体が、既存の価値の尺度から、個人に移ったのである。
こうして、現代では、万人に共通する統一的な価値尺度が消失し、個人がそれぞれ別の価値尺度に従うようになった。
SNSでの承認欲求
現代におけるもう一つの特徴として、SNSの普及があげられる。特に、「X」や「instagram」、「YouTube」などのSNSである。これらのSNSは、個人が不特定多数に対して情報を発信し、不特定多数の情報を個人が受け取る。つまり、一対不特定多数の関係である。
このような不特定多数に対して発信される情報は、不特定多数が理解でき、関心を持ちうる内容である必要がある。なぜなら、SNSをやる理由とは、不特定多数に対して発信することで関心を持ってもらい、彼らと繋がり、評価をしてもらいたいからである。一言で言えば、承認欲求があるから、SNSをやっているといえるだろう。
包括的な価値尺度への依存
現代には、以上の二つの側面がある。一つは、個人がそれぞれ別の価値尺度をもち、それぞれの人生を歩むこと。もう一つが、SNSを通して、不特定多数に対して自分をアピールすることである。この二つの側面は、相反している。なぜならば、一方は価値尺度の個別化を行い、もう一方は不特定多数に通用するような共通した価値尺度を求めるからである。
あるいは、このように言えるかもしれない。社会における共通の価値尺度が消失したため、SNSというバーチャルな空間でより過激な形で、共通の価値尺度が復活したと。
この共通性は、見ず知らずの人物にも通じるような一般的で包括的な価値尺度である。それは、たとえば、年収、容姿、IQ、肩書、肉体などである。そして、このなかの一つとして、学歴が存在する。その理由は、学歴とは、日本の教育を受けている以上、全ての人間が共通して測られる尺度であり、「頭の良さ」とリンクしているとされる一般的な価値尺度であるからだ。
露骨な感情の増幅
SNSにおいて共通の価値尺度が求められることによって、社会的には意味を失いつつある学歴が復活した。SNSはおそらく、社会において失われた共通の価値尺度をより強化し、増幅した形で復活させている。その理由は、現代社会において、価値尺度によって人を価値づけするということが少なくなった、あるいはタブーとされたことへの反動からであろう。
社会には建前があり、表向きは綺麗事が支配している。だが、社会が排除しようとしても、人間のなかに存在する本能的な感情は消えない。ここでの本能は、人をある価値尺度によって測り、ヒエラルキー上に配置し、自分がそのヒエラルキーで他人よりも優位でありたいと願う本能である。要するに「マウントをとりたい」という願望である。
こういった願望は、綺麗事の支配する社会の表舞台からは排除されるのだが、排除されても人間の本能は変わらない。表舞台で抑圧された分、よりその本能は過激な形が発露するようになる。その場所が、匿名性と非対面性をもったSNSという場なのである。
結果として、価値尺度によって人を測り、優位に立ちたいという欲求がSNSの場に溢れることになる。その一つの形として、学歴によってマウントをとる「学歴厨」なるものが誕生するのである。
そして、それらの欲求はSNS上に溢れることにより、ますます増幅され、露骨なものになる。
その原因はいくつかある。同じ価値観をもった者同士は、その価値観を肯定する他者の存在によって、その価値観をより極端にさせる傾向がある。[1]あるいは、SNS上で目立つためにより過激な主張を行うこともある。いずれにせよ、SNSを中心として、人の本能に根差した言説は、より過激に、露骨になっていくのは間違いないだろう。
どのように学歴厨と向き合うか
では、そのような過激化した言説、「学歴厨」らにどのように向き合えばよいか。
もっとも、「学歴厨」になることを否定したいわけではない。「〇〇厨」になって、その道で生きていくのも個人の自由だろう。だが、本能を煽るような価値尺度による評価は、人の心を貧しくするように思われる。人を見下すことで自分を確立することは、自己のアイデンティティとしても不安定であろう。
であるならば、ひとまず全ての価値を相対化し、無意味だとするというステップが有効なのではないかと思う。学歴で言えば、学歴が良くても悪い人間はいるし、よくなくてもいい人間はいる。当たり前だが、このように相対化と無効化をした上で、あとは個人で自分が賛同できる価値の尺度を見出して、そこで人を見下さずに生きていけば良いのだと思う。