今回は、集中することについて論じる。
「集中すること」は、今日的なテーマである。その原因としては、現代社会には集中を乱すような刺激が多いため、集中力を欠きやすいということが第一にあるだろう。それゆえに、集中力向上を求める人が多いことも事実だ。しかし、そもそも集中するとは一体どういうことなのかを改めて問う必要があると思う。
今回の記事においては、集中することとは一体何なのか、集中状態の典型例を用いて分析し、集中が選択肢の排除であるということを示す。そして、選択肢が排除できない状態として、迷いを提示し、集中の対概念として定義する。そして、次回の記事で、集中できない原因とその解決について考える。
集中するとはなにか
行為に対する集中
集中と聞いて思い浮かべるイメージは、なにか一つのことに打ち込んでいることだろう。たとえば、勉強において集中するとは、勉強のみをわき目も振らずに行なっていることだ。あるいは、「集中工事」や「学業に集中したい」という場合、より長期的なスパンで何かに専念することをいう。この場合は大抵、他のことは置いておいて、とりあえずそれだけを行うという意味をもつ。つまり、トレードオフ、すなわち排他性を含意している。短時間の集中においても、他のことをしていたら集中していないことになるので、言うまでもなくトレードオフを含んでいる。
関係への集中
また、集中とは、行為だけではなく、関係に対してもあてはまるだろう。ある一つの服を集中的に着るとか、ある店を集中的に利用するとかいうこともある。これらは、着るや利用するという動作を集中して行なっているわけではなく、ある存在との関係に集中しているのである。より一般的にいえば、お気に入りとか、贔屓とかいった言葉で表されるだろう。この場合もまた、他の存在ではなく、その存在を求めるという点で、排他的である。
そして、この存在に対する集中の最たる例が、恋愛関係である。恋愛関係は、ある人間に対する排他的な関係である。つまり、ある1人の相手に対してのみ、恋愛関係が成立し、その他の相手をその関係から除外するような関係であるといえる。
「集中」の定義
これらの具体的な事柄から、集中することの定義を抽出するならば、「排他的に、独占的に、ある一つの対象と関係すること」といえるだろう。
この定義の、「対象」には、行為や存在を含む。そして、「関係する」ということには、対象を行うことや働きかけることを含む。たとえば、勉強に集中するとは、ほかの行為を排除し、勉強という行為と排他的に関係することである。
集中が独占的で、排他的な関係であるということは、集中するためには、他の対象との関係の可能性の排除が必要になる。この他の対象とは、現に関係をもっている対象に対して、代替することができるものである。いわゆる代替案といってもいいだろう。
この代替可能なもの、代替案は、その対象に代わることができるため、その対象と似たようなものである。たとえば、昼食のそばに対する代替案は、うどんである。勉強をすることに対する代替案は、ゲームをすることである。要するに、その対象と関係をもつか決める際に、候補に上がるものであり、それは、選択肢ともいえるだろう。
集中と迷い
では、その排除ができない状態はどのような状態だろうか。そのような状態を「迷い」と呼びたいと思う。
その迷いが生じるケースは主に二パターンある。
一つ目は、選択の段階で、選択肢のなかから、何と関係をもつかを決定できないケースである。
もう一つは、一度選択し、集中していたが、それが解けたケースである。何かをしている最中に、別のことをしたくなることがある。これは、集中状態が解けて、代替案が生じている状態である。また、お決まりのメニューではなく、別のものを選ぼうとするとき、関係の集中が解けて、再び選択肢が生じている。
このように、対象を決定できないこと、あるいは、集中が解けたあとの状態を迷いと呼べるだろう。この迷いの状態は、集中と対照的な状態といえる。よって、「集中」と「迷い」は対照的な概念、対概念として定立できるだろう。
この両者はおそらく人間にとってどちらも必要な状態であり、このバランスを時と場合に応じてとっていくことが重要なのだと思われる。たとえば、いつまでもメニューを決められずに迷い続けることは、時間の損失だし、よく考えずに飛び込んだ職場で、他の選択肢を考えず無理な労働を続けることも人生にとって良くない。
まとめと次回予告
以上は、身近でわかりやすい例だが、選択肢とは可能性でもあり、この可能性の考慮と排除は現代において特に重要な問題である。可能性がそうであり得る姿として認識されると、そこには可能性と自分自身の混合が生じる。これは、他人や他の集団に対する過剰な自己投影として姿を現すことになる。たとえば、芸能人を過剰に応援したり、誹謗したりする現象は、自己が自己の領域を超えて拡大し、もはや自分と自分でないものの区別がつかなくなっている状態を表しているだろう。また、自分のやっていることや人生に無意味さを感じるとき、それは集中状態の欠如としてのそうでなかった可能性への引力があるのだろう。自らの職業に対して、「こんなことに意味はあるのか」という問いは、より自分にとって重要な意味を求めるときには重要な問いだが、単に自分とは別の可能性への希求や、他の価値観に取り憑かれている場合には、病的なもの、無力感へとつながる。
こうした、おそらく最も現代的で、人生においても重要な問題である集中と迷いという概念の基本的な分析が済んだので、次回、上で予告したようなより深刻な問題へと潜入していく。