今回は、「写ルンです」(簡易フィルムカメラ)がなぜ人気なのかについて、哲学的に考えていきたいと思います。
今では、スマートフォン(以下、スマホ)で簡単に高画質の写真が撮れます。にもかかわらず、「写ルンです」が再び注目されているといいます。その原因を考えていくことで、
- 多機能であることの問題点とは何か
- 不便さ・レトロさが人気なのはなぜか
- 現代は、世界と直接つながることが求められている
こうした、さまざまな面白い思想の発見がありました。以下、その思想の探検を見ていきましょう。
なお、この記事においては、「写ルンです」の長所として、フィルムカメラならでは風合いの写真が撮れるということについては考慮しません。仮に撮れる写真自体が長所であるとするならば、スマホの加工によって同じような写真が作れるとしたら、その価値を論じられなくなるからです。この記事では、カメラとしての機能性ではなく、「写ルンです」を使うという体験に着目します。
写真を撮ることの目的は何か
そもそも写真を撮ることの目的は何なのでしょうか。最初に思い浮かぶ目的は、記録を残すことでしょう。たとえば、旅先で、風景や人物などの写真を撮ることで、後でその写真を見返すことができ、それらの光景を思い出すことができます。
このように、写真を撮ることの目的が、記録をつけることであるとするならば、簡単に高画質な写真を撮ることができるスマートフォンがあれば、それでいいはずです。しかし、「写ルンです」が流行っているということは、写真を撮ることに、単に記録を残すこと以上のことを求めているということになります。
では、何が目的なのでしょうか。
一般に、何らかの行為は、その行為によって得られる結果を目的として行われます。食事は腹を満たすため、散歩は健康のためなどです。しかし、食事はおいしさを感じること、散歩は運動を楽しむことといったように、行為そのものを目的とすることもできます。遊覧船に乗ることは、その行為の結果として、湾内を一周して戻ってくることを目的とするのではなく、遊覧船に乗っている行為の最中を楽しむものです。つまり、行為は、結果を目的とする場合もあるが、その行為自体を目的とする場合もあるということがいえるでしょう。
これは、写真を撮ることについてもいえます。仮に行為の結果を求めるのであれば、スマホで撮った写真の方が簡単で高画質であるため、より良いということになるでしょう。しかし、行為そのものを考えるとどうでしょうか。スマホの場合は、その簡易さゆえに、行為自体にはあまり面白味がないといえるかもしれません。少なくとも、「写ルンです」が与えてくれるような楽しみはないでしょう。
では、「写ルンです」は、写真を撮るという行為自体に、どんな楽しみを与えてくれるのでしょうか。以下、三点、考えてみます。
写真を撮ること専用である
第一に、写真を撮るという行為を楽しくする原因として、「写ルンです」が写真を撮ること専用の機械、すなわち専用機であることが挙げられます。「写ルンです」は、多機能なスマホとは異なり、カメラの機能しかありません。一つの機能しかない機械では、その機能を使った行為しかできません。「写ルンです」でいえば、写真を撮るという機能しかないので、写真を撮ることしかできません。このように機能が限定されていることは、一見不便に思えますが、二つの利点を挙げることができます。
選択からの解放
一つ目の利点として、なにをするのかを選択しないで済むということが挙げられます。一つの機能しかない機械は、その機能を使うしかありません。そのため、その機械を手にして、なにをするのか悩むことはありません。「写ルンです」を手に取ったら、写真を撮るしかないのです。
反対に、スマホのような多機能な機械は、その機能を用いてできることが多く、あることを行おうとしても、それを達成するための方法が、多機能ゆえに、いくつかある場合があります。たとえば、記録を取る場合、写真にするのか、動画にするのか。写真を撮るにしても、どのようなアプリを使うのかというように、いくつも選択肢があります。このような選択肢は、必ずしも望ましいものではなく、選択するということが、脳の負担につながるといわれています。
また、なんでもできるがゆえに、それを使う必要がないのに使うことがあります。たとえば、なにか思い出せないことがあると、すぐにスマホを使って調べようとすることがあるかもしれません。もう少し考えれば思い出せたかもしれないのに、それが解決できる道具があるとそれに頼りがちになります。その結果として、頭や体を使わなくなるということがあります。
さらに、特に目的もなくその機械を使ってしまうということが生じます。スマホの場合は、スマホ中毒として、問題視されています。多機能な機械は、それが多機能であるがゆえに、あらかじめなにをしようかを決めずに、とりあえず取り出して使うということができます。その結果、自らなにをするのかを決めてその機械を使おうとするのではなく、暇があればとりあえず使うというようになってしまいます。このようになると、意識しなくてもそれを使っているという状態になります。この状態は、行為の選択の能動性を失っており、中毒状態に陥っているといえるでしょう。
このように、多機能な機械は、機能の選択が多く、それを用いることに対する主体性を損なう可能性があります。一方で、単機能な機械は、それを用いてできることが一つしかないため、こうした問題は生じえません。「写ルンです」でなにしようかを悩むことはないし、「写ルンです」中毒になることもないでしょう。
行為を特別なものに仕立てる
二つ目の利点として、その行為を、特別なものとして際立たせられることが挙げられます。
スマホなどの多機能の機械は、その機能の全てが、その機械の一部であり、一つの使い方でしかありません。それは機能としては、携帯電話にもなるし、パソコンやカメラにもなります。しかし、スマホという機械そのものは、電話でもないし、カメラでもありません。スマホのアプリのように、それらは、スマホに含まれる機能であり、スマホの一部に過ぎません。つまり、それらの機能は、全体のなかの部分に過ぎず、独立して存在せず、スマホという多機能性・汎用性の中に吸収され、従属しているといえるでしょう。
このように考えると、スマホのカメラは、多くの機能の一つであり、また汎用性という利便性を求め、その名のもとに集合させられた機能の一つに過ぎず、多機能性の中に埋没しているというべきでしょう。ゆえに、機能としてのカメラは、利便性を求める日常的行為の延長でしかなく、その行為に特別性を与えるのではなく、むしろ奪ってしまうといえるでしょう。ゆえに、スマホで写真を撮ることは、「味気ない」と感じられうるのです。
それに対して、単機能の機械は、その機能のためだけに存在します。そして、機能は行為と結びついているため、一つの機械が、一つの機能=一つの行為のためだけに存在しているということです。「写ルンです」の場合、写真を撮るという機能しかないため、写真撮影のためだけに存在しています。これは、一つの行為を、機能として抽出し、それを純粋に機械に込めたものであるといえるでしょう。そのため、行為と機械が一対一で結びついています。このことを、行為の物理化といってもいいでしょう。
こうした、一つの機能を一つの機械に抽出するということは、純粋に、その行為を行うためだけの機械を作るということです。このような行為を行うための純粋さが、単機能の機械にはあります。こうした純粋さは、その行為のためだけであるということによって、その行為を、他の日常の行為から区切り、特別なものとして仕立てるのです。
そう考えると、その機械は、その行為を飾るガラスケースのようなものといってもいいかもしれません。
次回予告
長くなったので、一旦ここで区切ります。次回の記事では、残り二つの行為自体の楽しさを考えます。
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この記事は前回の続きです↓ [sitecard subtitle=関連記事 url=https://www.sou-philosophia.com/film-camera1/ target=blank] ht[…]