コスパ思考は罪か 【ウルトラ・ニッチ書評】

 

 

浜田寿人著『ウルトラ・ニッチ』を読んだ。実に興味深く、2時間ほどで読了してしまった。

この本において、特に気になったのは、p.160-178にかけて、そしてその後も言及される、コストパフォーマンスや安売りに対する批判である。

コスパという言葉はダサいので、なくすべきだという主張までなされている。(p.165)

 

本記事では、その著者の主張をもとに、コスパとは何なのか、そして、コスパという考えがなぜ悪なのかを考える。

 

 

 

『ウルトラ・ニッチ』の内容

 

本題に入る前に、少しこの本の内容について扱いたい。というのも、コスパについての意見はこの本の一部で、この本全体としても非常に良い本だと感じたからだ。

この本は、WAGYUMAFIAの共同創業者である浜田寿人氏が、WAGYUMAFIAの創業から現在までの過程や、WAGYUMAFIAの根幹の価値観、自らのビジネス観、人生観を綴ったもので、読んでいて熱意と誠実さが伝わる良い本だ。

特に、和牛についての知識がかなり詳細に綴られており、和牛とはそもそもどんな牛なのか、どのようなルーツがあって、どのような認定基準があるのか。その和牛を育てるのにはどのような過程があり、どのような人々が携わっているのか、そしてそれを屠畜し輸出する仕組みなどが詳しく描かれている。特に、尾崎牛を飼育する尾崎さんと、和牛を海外輸出するための枠をもらった村上さんの話は、非常に臨場感があり、面白かった。

 

 

『ウルトラ・ニッチ』のコスパに対する批判の内容

 

本題に移る。

 

本書のコスパに対する批判的主張は、二通りの方法をとっていると考えられる。

その方法は、高い値付けをすることの正当性の主張と、安売りに対する批判的主張である。

要するに、コスパという概念はよくない。なぜなら、高いものを高く売るのは正しい、かつ、安く売ることは良くない、という二通りの主張をしている。

以下、両主張をまとめ、妥当性を考える。

 

高い値付けの正当性

高い値付けの正当性の主張は、以下の通りだ。

 

・そもそも高いものはそれだけの価値があるし、その価値を守るためにも、高くするべき

・価値があると認められれば、高くても買ってもらえる

・高さそのものが価値の指標となり、ブランドとなる

・原価からではなく、それがもつ価値・ブランドから値段をつけるべき

 

端的にまとめると、

売る側がモノ・サービスにそれだけの価値があると確信していれば、それを客に伝えることができるし、その価値を認めてくれる客が必ずいる。

ゆえに、原価を価格の基準にするのではなく、そのモノ・サービス全体の価値に相応しい値段をつけるべきだ。

となるだろう。

 

この主張は至極真っ当であり、正しいと思う。

 

安売りに対する批判

もう一方の安売りに対する批判は以下の通りである。

 

・成熟社会になり、人々は、安さではなく、体験価値を求めている。

・利益率が低いビジネスは持続的でない

・既存の価値観に固着し、ブランド価値が理解されていない

 

こうした主張がなされていた。これらの主張も一理あるが、根本的なコスパ思考の問題点が十分に主張されていないと思われるので、それについて以下、論じていく。

 

 

コスパ思考の根本的問題

 

p.175に「コスパという言葉は、過去の自分の経済感覚でしか語れない古いものさしです。」とある。おそらく、この一文がコスパ思考に対するもっとも本質的な批判だろう。

コスパ思考とはなにか。

それは、あらゆるモノ・サービスを、既存の尺度で画一的に判断する思考である。その尺度とは、もともと自分がもっていた「何に価値を見出すのか」と「その価値は今までいくらで買えたのか」というものである。

すべてのものをこのような既存の尺度で判定するため、新しいモノ・サービスに対して、それが提供する新しさを見ようとせず、既存の満足しか求めない。ゆえに、新しい価値を見出すことがないのである。

そして、このような考え方は、ブランドと最も相性が悪い。

そもそもブランドとは、唯一性であり、そのブランドでないと手に入らないものである。このような他には存在しない唯一の価値であるブランドに価値を認めるためには、既存の自分、あるいは社会の価値基準には存在しない新しい価値を求め、認めようとする姿勢がなければならない。そして、コスパ思考とは、既存の満足を既存の相場観で測るものであるため、このようなブランドを理解できないのである。

コスパ思考とは、いわば、過去の経験や既存の価値観から、すべてのモノ・サービスを独断的に裁定する思考であり、この傲慢さに根本的な問題があるのである。この傲慢さは、あらゆるものを自分の理解の範囲内で説明しようとする。つまり、新しいものに対して開かれた姿勢・感受性がないのである。ゆえに、自分を変えようともしないし、自分を良くしようとは思わないのである。老害という言葉があるが、その本質は年齢ではなく、このような傲慢さにあるといえるだろう。

 

まとめ

 

たしかに、コスパが重要視されうる領域もある。それは、コモディティ化したモノ・サービスである。このような領域では、大体何を買っても同じであるため、コストのみが唯一の差別化要因となる。

しかし、新しく価値を提示する領域において、コスパ思考は、その価値を認めようとせず、従来の価値において比較するという点において、全くナンセンスなのである。