前回まで、何かを評価する際の他者の影響を中心に分析してきた。そこでの関心は、他者の評価に流され、他者の評価を自分の評価としてしまう心理であった。
この記事では、その応用として、「逆張り」の心理を分析する。逆張りは、一見他者の評価に流されていないようだが、実際は、他者の評価ありきの評価であることを論じる。
評価の構造
直接的評価と間接的評価
詳しくは、この記事にて論じている。
直接的評価とは、評価対象を評価者が直接評価することである。たとえば、美味しいものを食べて、美味しいと評価することであり、一般的な評価である。
間接的評価とは、誰か別の人の評価を自分の評価とすることである。たとえば、映画のレビューサイトの意見をそのまま自分の意見にしたり、価値のあるとされているブランドを好んだりする。
評価と他者
詳しくは、この記事で論じている。
直接的評価と間接的評価の違いは、評価の過程に他者の評価が入り、それが自分の意見に決定的な影響を与えるか否かである。つまり、評価の主体が自分か否かである。それを明確に区別することは困難だが、明らかに自分が評価主体でない場合が存在し、それは容易に特定できる。
その一種が、逆張りである。
逆張りとは
逆張りの定義
ここでの逆張りは、世間・他者から評価されているものに対して、それが評価されているという理由から、あえて評価しないこととする。その逆で、評価されていないものを、評価されていないがゆえに、評価することも含む。だが、一般的な逆張りは、あえて評価しないことの方が圧倒的に多いだろう。ゆえに、以下、評価されているものを評価しないことを逆張りとして扱う。
そして、一般的な逆張りとは、その逆張りの評価を他者や世間に主張するので、評価されていることを評価しないと「主張する」ことといえる。
また、逆張りは、その評価を最終的に自分のものとする場合に限る。たとえば、あえて逆張り的な思考をしてみて、最終的には自分で評価するという場合は、ここでの逆張りには該当しない。
逆張りの構造
逆張りは、構造的には、間接的な評価と似ている。間接的な評価との違いは、それが人気であるから高評価するのではなく、人気であるという理由で否定的に評価するところにある。あるいは、間接的評価やその典型例であるブランド志向のような、「人気であるから高く評価する」という態度自体を否定的に評価する。
具体的に言えば、とある作品が人気であるとする。間接的評価は、それが人気であることを理由にそれを評価する。逆張りは、それが人気であること、そして、人気であることを理由に評価することに対抗して、それを否定的に評価するのである。
つまり、逆張りとは、間接的評価とは異なり、他者の評価と同じ評価をしているわけではなく、反対の評価をしている。だが、間接的評価と同じく、評価の決定方法は、他者に依存しているといえる。なぜなら、他者が良いと評価するから、逆張りで悪いと評価するからである。よって、逆張りも、間接的評価と同じように、他者の評価に依存しており、主体的な評価ではないといえるのである。
なぜ逆張りをするか
上記のように、逆張りとは、主体的な評価ではなく、評価されているものを評価することに対する否定である。とすれば、評価されているから評価する理由をまず挙げ、それに対する否定を考える必要がある。
評価されていることを評価することの理由は、(1)自分の評価に自信がない(2)周りからの歓心を買うため、(3)価値のあるとされているものに価値を見出す、というものだった。(前回記事より)ということは、逆張りの目的は、これらを否定することにあるだろう。
自分で評価できると主張するため
まず、(1)の「自分の評価に自信がないこと」を否定する目的は、自分の評価に自信があり、自分自身で評価できることを主張することにあるだろう。
他者や世間が評価されているものを評価することは、それが主体的な評価であるかどうかにかかわらず、他者や世間の評価と同じように評価していることになる。ということは、表面的には、他者の評価に流されて同じように評価しているようにみえる。
一方、逆張りであれば、他者や世間の評価とは反対の評価をしているため、表面上は、他者の流されず、自分自身で評価をしているようにみえるのである。
迎合しないと主張するため
次に、(2)の「周りの歓心を買うこと」を否定する目的は、自分が周りと違う評価をし、周りの歓心を買えなかったとしても、自分は自分を貫くということを主張するためである。
周りや世間から高評価のものを同じように高評価することは、周りや世間から共感や歓心を買うことにつながる。このような評価されるために評価する姿勢は、大衆迎合的であるといえるだろう。
このような姿勢をあえてとらないことで、周りに迎合しない姿勢をアピールしているのである。要するに、自分は他の人と違う評価をすることを恐れず、自分の評価を貫くということの主張である。
独自の価値観をもっていると主張するため
最後に、(3)の「価値があるとされていることに価値を見出すこと」を否定することの目的は、一般的な評価基準や価値観とは異なる価値観をもっていることを主張するためである。
価値があるとされていることは、多くの人が価値があると考えている。そのため、価値があるとされていることに価値を見出すと、多くの人と同じ価値観をもっているということになる。あるいは、多数派の価値観に流されていると考えられうる。
逆に、多くの人が価値があると考えているものを否定することで、人とは違う独自の価値観をもっていると主張できるのである。
逆張りが主体的でない理由
以上より、逆張りをする目的は、流されずに評価できること、迎合せずに自分を貫けること、人と違う価値観をもつことをアピールすることにある。
したがって、逆張りとは、自分は他の人と違う価値観をもち、それを貫いて評価できるという主張なのであり、これはすなわち、主体的な評価ができるという主張・アピールなのである。
しかし、実際、逆張りは以下の二つの点で、主体的ではない。
まず、他者の意見に流されまいとして、それの逆の評価をしているだけであり、自らの意見をもっているわけではない。「他者の」逆の評価をするということは、その評価の主体は他者にあり、他者の評価に決定的な影響を受けているといえる。この点で、評価されているものを評価する間接的な評価と変わらない。したがって、主体的・直接的な評価ではない。
そして、それをアピールしている点である。アピールすることの目的は、自分が他の人とは違う評価を主体的にできると他者に思ってもらうことにある。そして、他者にそのように評価してもらうことで、自分が主体的であると思えるのである。つまり、自らの主体性を他者からの評価に依存しているという自己矛盾が生じているのである。これは、主体的であることとは正反対である。
このように、逆張りとは、主体的で独自の評価をしているようで、実はそのようにみせかけるためのアピールであり、他者の評価に依存した間接的・受動的な評価なのである。