沁みるを哲学する2 哲学チャンネルep.21-22 

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前回の沁みるを哲学する1は、沁みるとは何かについて、具体的に沁みるものを挙げながら、その共通点を探しました。また、沁みる体験とその正反対の体験を比較しながら、それらは何が異なるのか、比較するための軸を明らかにしました。

今回は、その軸を用いながら、沁みる体験と沁みない体験に表れている、体験を分類する特徴を考えていきます。その際に、日常と非日常という今までのチャンネルのテーマに戻り、対照的な二つの体験が非日常という点では共通していることをまず示します。その次に、両体験がそれぞれどのような非日常性を求めるものなのかについて、冒険と安定、抑圧と解放という対立軸で考えます。

 

非日常としての沁みる・沁みない体験

前回見た通り、ジェットコースターと温泉は対照的な属性をもつ体験です。両者を比較する属性として、速度、刺激、馴染みを抽出したのですが、これは体験の質にあたるものでしょう。つまり、ジェットコースターに乗るという体験がどのようなものか、その体験に基づいて、温泉と比較しながら、その性質を抽出したものといえます。端的に言えば、その体験によって得られる感覚といってよいでしょう。

それでは、これらの体験の目的はなんでしょうか。なぜ、ジェットコースター的な体験や温泉的な体験を人は求めるのでしょうか。それは、人にはこの両者の代表される全く別方向の非日常性への欲求があるからだと思います。つまり、この二つの体験は、それぞれ全く別の方向に日常から離れようとする体験であるといえるのです。

日常をニュートラルな状態であるとしたときに、ジェットコースター的体験も、温泉的体験も、日常から正反対の方向に比較軸をスライドした体験であるといえます。日常は温泉ほどゆっくりしていないし、ジェットコースターほど速くもありません。刺激に関しても同じでしょう。馴染みに関しては、ノスタルジーという感覚が上手い説明をしてくれるように思えます。これは、失われた馴染み、故郷をなつかしむということで、日常よりも、より馴染みがあり、日常の疎外感や異邦性を補完すると考えられるでしょう。

このように考えると、日常を中心に置いた比較軸の左右に、沁みる体験・沁みない体験をそれぞれ配置し、それらを非日常であるとして考えることができるでしょう。こうして、この二つの体験を異なる二つの非日常のあり方に結びつけることができました。

 

冒険的非日常性

冒険と安定

以上のように、ジェットコースターも温泉もどちらも非日常を求める体験であるといえるのですが、この二つの体験は、日常を中間に挟んでちょうど対称的(対照的)でもあります。

ジェットコースターのような体験は、感覚的にも非日常的な体験で、冒険といえるでしょう。冒険とは、日常の枠組みをはみ出し、未知なる世界へと足を踏み入れることです。そのため、危険が伴います。すなわち、予測不能であるということです。そして、その予測不能性は、日常から飛び出るため、今まで以上の良いことがあるかもしれません。それと同時に、悪いことが起こるかもしれません。冒険とは、このようにハイリスクハイリターンなのです。

冒険がこのように賭けの要素を含む不安定さを持つことから、人は常に冒険を続けるわけにはいきません。冒険小説において、安らぎの宿が必須であるように、人は冒険の中で獲得したものを持ち帰り、それを保存するための「家」を必要とします。それは、心理的に安全な環境ともいえるでしょう。何かあったときに、あるいは冒険に疲れたときに、引き返してくる安定的な場所が必要であるということです。これが日常性であるといえるでしょう。

人はどちらかというとこの日常性に軸足を置いています。なぜならば、原理的に、冒険とは日常性の否定を含んでいるからです。すなわち、冒険とは日常性を地盤としており、日常性に対して相対的であるということです。このことは例えば、「はじめてのおつかい」を見れば一目瞭然でしょう。お使いが小さい子供にとって冒険であるのは、子供の日常性の範囲外であるからです。したがって、日常性は冒険の否定性に晒され続け、冒険によって否定的に更新され続けます。冒険によって獲得されたものは、日常性に持ち込まれ、日常性はその度に少しずつ形を変えていきます。ちょうど足掛かりを作っていくのに似ているかもしれません。あるいは前線に橋頭堡を築いていくイメージかもしれません。

このように、人は日常に足を置きつつ、そこを心理的な拠点とするから冒険をすることができます。このことはつまり、人間には日常と冒険の往還運動が必要であるということでしょう。

退屈

ではそもそもなぜ、人間にとって、日常と冒険の往復運動は必要なのでしょうか。それは、アリストテレスがいうように、人間が「知ることを求める動物」であるからかもしれませんし、ショーペンハウアーがいうように、無目的な意志の力をもっているからかもしれません。本当のところはわかりませんが、確かなことは、人間は、衣食住が満たされた安全な空間に閉じ込められていることには耐えられない存在であるということです。人間はどのような仕方であれ、フロンティアを求めざるを得ない存在であるといえるでしょう。

このことは、つまり、馴染んだ世界に対して、それを拡大しようという意志が常に人間にはあるということを意味していて、それは、日常生活の中では、退屈として感じられるものです。退屈とは、まるで現在がいつまでも変わらず、間延びしているように感じられることであり、日常の予測可能性がどこまでも続いているように感じられるときに、沸き起こる感情であるといえるでしょう。すなわち、冒険の不足です。

このように、人間は一方で安定的な日常を求めつつも、他方でそれだけでは飽き足らず冒険をしたくなるという、ある種引き裂かれた存在であるといえるでしょう。あるいは、矛盾を抱えた存在ともいえるかもしれません。

バランス感覚としての気分

常に冒険し続けるわけにもいかず、常に日常性の中にあるわけにもいかないのが人間であるならば、人間はその間にいて、引き裂かれている、あるいは、バランスをとり続けているといえるでしょう。このバランス感覚は、誰もが持っているもので、人は無意識的にうまく舵取りをし続けています。この無意識的な舵取りが、表出する形態が気分であるといえるでしょう。

たとえば、今日は気乗りするとかしないとか、冒険してみたいとかいったことがあるでしょう。いつもの散歩道を外れたり、いつも頼まないメニューを頼んだり、どの服を着るか選んだりするときに、この気分が決定要因になりえます。そして、「冒険してみる」という言葉がそのまま表しているように、気分とは、冒険と安定を無意識的に舵取りするものであるといえます。

このように、気分とは安定と冒険を行ったり来たりする要因であるため、一貫性を欠いたものです。すなわち、日によって同じ人が別の行動をとる原因となります。これは程度は違えど、多重人格のような状態であるともいえます。けれども人々が自らの分裂状態にそこまで過敏にならずに済むのは、この気分という便利な概念があるからであり、それによって人は冒険と安定の往復運動を、統一的な人格として統合的に認識できているのです。

 

解放と抑圧

沁みる非日常性と冒険的非日常性の比較

これまでの日常と冒険の対比はわかりやすいものだったかと思います。ここで、沁みる体験に戻ると、この沁みる体験とはどこに位置付けられるのでしょうか。

この記事の冒頭で、沁みると沁みないをどちらとも非日常として括ったのですが、冒険に相当する体験は、ジェットコースター的体験であり、それは冒険的な非日常的体験です。この冒険的な体験においては、日常と非日常の往還運動についての理論があてはまることを上で見たのですが、同じことが沁みる体験にもあてはまるでしょうか。

ニュートラルという抑圧

日常がいつまでも変わらず、予測可能性の檻の中にあるとき、人は退屈を感じるといいました。これは、日常に刺激が足りない場合を主に指しているといっていいでしょう。つまり、常に同じようなあり方をしており、その型から飛び出そうという内圧が高まっているような状態です。

人はその中心に不定形のエネルギーを抱えており、そのエネルギーは常に既存の形態を破壊する方向へ向かいます。そして、日常性という予測可能性は、檻のようにそのエネルギーを抑え込むため、ここに力の衝突が生じ、内圧が高まり、やがて日常性の枠組みを内側から壊すことになります。この破壊的なエネルギーの解放が、安定に対する冒険であるといってよいでしょう。

このように考えると、日常の安定性が、人間のエネルギーに抵抗するものでもあるということがわかります。つまり、人間を制限し抑圧する檻でもありうるということです。

この抑圧は退屈な檻となることもあれば、不安やプレッシャーをもたらす重圧的な檻となることもあります。この状態は、外圧が強まり、自分を押し潰そうとしている状態であるといえるでしょう。

したがって、日常性とはその安定性がゆえに、変化に対する抵抗として、冒険に抵抗するものであり、また同時にその不変さが恒常性を招き、つねに同じであり続けるものとして人間に重くのしかかるようなものでもありうるわけです。これが重圧と化し、プレッシャーを与えるのです。

刺激による抑圧からの解放

日常がこのようにいずれかの意味で抑圧的である場合、人はそれを解放させる必要があります。その際に、冒険的非日常を体験する場合、日常には存在しない強力な刺激を与えることで、日常を破壊しようとします。

日常が平凡で退屈である場合、現在が間延びし、いつまでも続くかのような感覚を覚えます。それは、変化の喪失であり、時間の喪失であるといえるでしょう。退屈とはまさに変化しないことであり、時間の感覚を失うことです。

この場合、とにかく変化を引き起こすことで、時間を取り戻すことができるでしょう。そのためには、強い刺激が必要になります。強い刺激とは、まさにジェットコースターのように急上昇し、急降下する刺激です。この刺激は、比喩的に言うと、数直線のようなまっすぐな直線を、指で摘んで山を作ることに似ています。直線の状態は何の変化もない時間の流れで、そこに歪みを加えることで瞬間が生じます。この瞬間は、今ここという時間の凝縮を可能にし、永遠の現在を終わらせることができるのです。

このように、時間はその流れから区切られ、局所化することで瞬間を生み出します。この瞬間は、時間の流れの中に存在する起伏であり、この上下が激しいほど、より局所化し、瞬間が時間の流れから分離しているように感じられます。この時間の局所化は、日常的に言えば、生活のメリハリや、行事や祭りに当たるでしょう。そのイベントに向けて盛り上がり、そして終わっていくという感覚は、まさに時間が確かに連続していながらも、その瞬間が前後の時間から切り離されているかのように感じさせるものではないでしょうか。ジェットコースターとはその典型例で、短時間の間に文字通りアップダウンすることで、時間の流れにも振れ幅の大きい波を作り、これが瞬間をつくるのです。

弛緩による抑圧からの解放

一方で、日常が退屈として、すなわち永遠の現在のような空虚としてではなく、重くのしかかるものとして抑圧するときに、人は別の解放を求めるでしょう。

この状態にあるとき、人は、まさに文字通り圧力(プレッシャー)を感じでおり、外圧が自分の体に向かってかけられているように感じるでしょう。たとえこのプレッシャーに無自覚であったとしても、人は生きていく上でさまざまなレベルでバランスを取らなくてはならないため、常に圧力を受けていると言っていいでしょう。たとえば、会話において、もはや無意識的に返している返事の言葉も、そこには社会的な慣例や、相手との関係性などを考慮した、省略されつつも複雑なプロセスが存在するはずです。それは重力のようにそこにあるのが当たり前であったとしても、やはり体は地面に向かって押さえつけられているのです。

こうした外圧を解放するものとして、沁みる体験としての温泉があるでしょう。温泉で服を脱ぎ、裸になるということが、心も解放することにつながるということはよく言われている通りです。また、服を脱ぐという行為が、社会性からの逸脱であるということもその通りでしょう。ただ、やはり湯の中に身を浸すということが中でも特筆すべき解放でしょう。

お湯の中で、身体と湯の境界線が混じり合い、不明になっていく感覚。そしてそれゆえに、湯の温もりがじんわりと身体の中にまで染み込んでくる感覚。これはまさに、普段人が外界から隔てられており、そこから圧力を受けつつ、それを弾き返している、体の表面である皮膚の融解であり、身体ひいては精神の流出であるといっていいでしょう。やや大袈裟かもしれませんが。

この融解、流出といった感覚的な出来事は、身を委ねること、支えてもらうことと似たようなことでしょう。つまり、これらは本質的に「家」の役割を果たすことになります。温泉は、それが心地よい温度のなめらかなお湯であるから身を委ねることができるのであり、美味しい味噌汁はそれがちょうど良い塩加減であり、旨みが効いているからこそ、味覚も身体も喜ぶ味なのです。

このように日常が程度の差はあれ、安定・安心を喪失しているからこそ、それをもたらす沁みる体験を人は求めているのです。

まとめ

長くなったのでこの記事は一旦ここまでにして、続きは次の記事に書きたいと思います。

この記事では、沁みる体験と沁みない体験を、それぞれ正反対でありつつも非日常として、日常との対比において扱い、日常とは何かを検討しました。その上で、日常のもつ抑圧的な性質に対抗するための異なる策として、冒険的な体験(=沁みない体験)と、安定的な体験(=沁みる体験)を考え、それらを解放として定義していきました。今後より精密に考えていく必要のあるテーマが出たように思います。