今回から、ポッドキャストの哲学チャンネルで話した内容をまとめる記事を書こうと思います。
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初めに
16回目のテーマは、以前扱った富士山についてのまとめです。
主な内容は
- 物理的な身体と身体感覚、意識上の自分との違い
- 「自分」とは、周りの空間、あるいは日常性という枠組みへを含んでいる
- 富士山や朝日との出会い方。日常性の中で出会うか、それを壊すものとして出会うか
- 美しさの難問。美はどこにあるのか。美に接するためにはどのような関係が必要なのか
以上のようなことを話しました。
いずれの話題も身近なことでありながら、問い進めていくと思わぬ発見があり、またなかなか難しい問題にたどり着きました。
それでは、それぞれのテーマについて、まとめつつ、再び考えていきたいと思います。
物理的な身体と意識上の自分の違い
これは、富士山や朝日などの美しいものによって打ち破られる日常性について説明するための前提となるテーマです。日常を新しく見直すためには、まずは日常のものの見方を少し反省することで、今まで無意識的に行なっていたものの見方を認識する必要があります。
日常的なものの見方として、チャンネルでも話した科学的なものの見方があります。科学的なものの見方とは、ある存在を中立的に、観察された対象として見出すということです。
科学的な見方では、観察者が中立な第三者として、対象を観察します。たとえば、観察者の目の前にノートと鉛筆があるとき、このノートと鉛筆は観察者に対して独立に存在し、どちらも公平に対象としてとらえられます。これは、観察者に対して対象が独立であり、観察者は対象に関与せず、そのため、観察者が存在せず、それ自体で存在しているかのように捉える見方です。対象の観察者からの独立に焦点をあてる場合、これを客観的な見方といいます。
客観的な見方の反対が、主観的なものの見方です。主観なものの見方とは、対象を、それを認識している観察者から切り離さないで見る見方です。よく主観的な意見という言葉が、個人的な好き嫌いの入った意見として使われていますが、これは対象を自分から切り離さない見方をした結果の意見という意味で使われています。
科学的、客観的な見方においては、観察者から独立した世界の中に存在する物体は、互いに他のものから独立した存在とみなされます。たとえば、鉛筆はノートの上にあっても、ノートとは別の存在として区別されます。
また、他のものから独立しているということは、他の存在の力を頼らないということでもあります。鉛筆はノートのおかげで存在しているわけでも、他の何か別の存在に依存して存在できているというわけでもありません。鉛筆は自分自身の力で存在しています。
このように、他の存在から区別され=独立、独立した存在が自ら存在する=自立、というものの見方が、科学的なものの見方といえます。それゆえ、このものの見方は、個が組織(個の集合)に先立つと考えます。つまり、まず個があって、それが集まることで組織ができるという考え方です。すなわち、その個は、世界を構成する最小単位として、前もって存在し、次にそれらが相互関係をもつというという考え方=ものの見方になります。
このようなものの見方は、近代以降、人間に対する見方にも適用され、個人を社会の基本単位とした近代的な社会観が形成されます。その社会観においては、個人は、それぞれが自らの意志で主体的に行為するため、自分の行為の決定権はすべて自分にあり、それゆえ自分の行為に対する責任が生じます。これに似た話は、以前の原子論についての記事でも取り上げました。
前回に引き続き、パルメニデスの存在論と現象世界を調停する思想であり、パルメニデス以後の哲学者の仕事の集大成として原子論というものが登場する。この思想は基本的には、エンペドクレス、アナクサゴラスの思想の延長線上にある思想で、彼らと同じく存在者[…]
このような、科学的なものの見方を前提とした人間観は、人間を物体のような存在と同様に、個別的で自律的(自己決定的)な存在としてとらえます。そして、この見方はある程度まで一般的でしょう。
さて、それは正しいのでしょうか。この見方では辻褄の合わないことはないでしょうか。たとえばラジオでも挙げたように、こんな質問をしてみます。
「あなたとはどこまでがあなたですか?服はあなたですか?」
すると、服は自分の体の一部ではないから、違うと言うかもしれません。これは上の、科学的なものの見方を前提とした人間観に基づいています。この考えでは、まず、他のものと区別された人間が存在し、それが服と関係をもつとします。そうすると、服を着た人間は、人間に服が加えられている状態ということになります。それは、ノートと鉛筆のように互いに独立してあるという状態です。確かに、物体として考えると、人間と服はその表面で分離しています。しかし、人間は服と単に近い距離にあるのではなく、服を着ることで初めて生存可能となります。
人間は身を守るためや着飾るためなどさまざまな理由で服を必要としています。同様に、食べ物や家、家族や仲間を必要としています。確かに、物体としての身体は、鉛筆などの他の存在と同じように、空間の中で個物として切り離されます。しかし、人間は、まず人間が単独で個人として存在して、その後に世界(周りの環境)へ入っていくのでもありません。初めから、世界との関係の中に、世界と切り離せない形で人間は存在しているのです。この意味で、人間はさまざまなものに依存して生きています。
よく、「人やものに依存するな。自立しろ」といった類の言葉も耳にしますが、立ち止まって少し考えてみれば、以上のことから原理的に不可能であるとわかります。そもそも、完全な自立とは、この世のものとの関係を全て断ち切ってもなお存在可能であるという事態で、それは不可能なことです。鉛筆のような事物に対してもそれは同じで、周囲の環境が存在に対してその存在を受け入れるから、それは存在可能なのです。つまり、自己はそれを支える環境を切り離して存在することはできない以上、自己とは環境をも含んだ広がりをもつのだといえます。「自立」について正確に考えるなら、この環境=自分の生がなにによって成り立っているのかに対して自覚的になり、自ら環境を変えること、すなわち依存対象を変えることができるということでしょう。つまり、自立とは無意識的で受動的な依存から、意識的で能動的な依存への移行といえるかもしれません。
このような論理展開だと、自己から出発して、自己に必要なものとして環境が規定されるように感じるかもしれません。事実、人間は環境を変えることができます。人間は何かを食べなくては生きていけませんが、何を食べるのかはある程度自由です。しかし、同じように環境もまた人間を規定します。食べ物は人間の身体を作ります。環境は人間の気質に影響します。
したがって、人間もその他の事物も、互いの関係の中で依存的に存在するといえます。そうであるならば、自分が依存している環境もまた自分のようなものであり、少なくとも取り外し可能なものではありません。普段、無意識に呼吸をし、無意識に重力環境に適応しているように、さまざまな環境的なものを受け入れています。その無意識に受け入れられたものが、自分と融合していることに気づかずに、日常の枠組みを形作っているということがあるでしょう。その日常の枠組みをあらためて見直すための方法をこれまでのチャンネルにおいて考えてきたのでした。
まとめ
さて、まだ一つのトピックについてしか触れていませんが、文字数も嵩みそうなので一旦これで区切り、次回へ続けたいと思います。
また、今回の内容は哲学史上でも結論は出ておらず、議論が分かれています(そもそも哲学史上で結論の出ていることなどないでしょう)。そして、本当はもっと細かく分析し、検討しなければならない主題です。ゆえに、以上の内容に問題点があるかもしれません。しかし、今のところは私の問題意識全体のざっくりした説明と、その結論の予感を先取りして述べておこうと思いました、という言い訳をしておきます。ラジオ同様、考えるきっかけになったらいいのではないかと思っています。
以上の議論を、哲学チャンネルにて紹介した和辻哲郎の『風土』は、「寒さとは何か?」とか「慣れ親しんだ風土は私を超えて我々にとってどのような存在か?」といった主題で扱っています。哲学的な概念や言い回しが難しいものの、言いたいことの雰囲気は伝わるのではないかと思います。AmazonのKindleUnlimitedにて無料で読めるので参考してください。