【古代ギリシア哲学7−1】ソフィストとはなにか

ソフィストとは、紀元前5世紀中頃のギリシアで誕生し、後の古代ローマまでさまざまな形で続いた職業教師である。彼らは、それまでの古代ギリシアの伝統的な教育であったホメロスなどの詩に代わって、新たな事柄を青年に授業料をとって教育した。

このソフィストが特に活躍したのが、アテナイである。なぜ当時のアテナイでソフィストが流行し、活躍したのか。また、「ソフィストである」と当時みなされたソクラテスやプラトンについて、彼らのどの点が民衆にソフィスト的と映ったのか、また、彼らはどの点においてソフィストと区別されるのかを知るためにも、ソフィストとは何かについて検討することが必要である。

そこで、まずソフィストとは何かについて論じるために、各ソフィストの共通点を見出し、ソフィストについて暫定的に定義し、その特徴を論じる。次に、ソフィストが誕生した背景を探るため、当時のアテナイの社会がどのような状態にあったのかを論じる。ここでは、旧来の社会体制の変革と共に旧来の社会の慣習が権威を失い、新たな価値観が誕生していくこと、具体的には相手を説得する弁論術の価値が高まることと呼応してソフィストが誕生することを論じる。最後に、ソフィストとは何かについて、いくつかの立場から論じ、立場によってそのあり方が異なることを示す。

今回はソフィストについての包括的な議論を展開する。具体的なソフィスト個人の思想については、次回扱う。

ソフィストの定義と特徴

ソフィストはギリシア語ではソフィステースといい、もともとは詩人、音楽家、料理人など、特殊な知識・技術をもった専門家を指し、彼らは、教師や師匠として生徒や弟子にその知識・技術を伝達し、それによって彼らを自分と同じ専門家に教育した。つまり、ソフィストは専門家であり、教育者でもあったのである(『哲学の原風景』p.154)。

それに対して、哲学史上のソフィストとは、BC5世紀中頃に、古代ギリシアの都市国家アテナイに登場した、金銭と引き換えに徳(アレテー)を教えると称した職業教師であると定義できる。しかし、この定義はかなり大雑把である。具体的にどのようなことを教えていたのかがわからない。その理由は、ソフィストという名称のもとに括られる個々人は多様であり、特に具体的に何を教えていたのかの共通点を見出すことが難しいからである。

例えば、代表的なソフィストとして、プロタゴラスとゴルギアスなどがいる。プロタゴラスはソフィストを自称した初めての人物であるとされているが、ゴルギアスは自らをソフィストとは認めなかった。それでもゴルギアスがソフィストに分類されるのは、職業教師であるという大雑把な定義に当てはまるからである。ゴルギアスが自らをソフィストと認めなかった理由として、先駆者であるプロタゴラスとの差別化を狙ったからだといわれている。

このことが示すのは、同じソフィスト同士であっても、学派や集団といった連帯がなく、むしろソフィスト同士は顧客である青年を奪い合う競争関係にあるということである。ゴルギアスが示すように、ソフィストは自らを他のソフィストとは異なることを主張し、それによって顧客を獲得する必要があったのである。つまり、ソフィスト間には、師と弟子といった繋がりも学派などの横の繋がりも希薄であったということである。結果として、ソフィストが青年に教えていた内容は、個々人で異なるということである。

したがって、ソフィストとは、青年たちの教育を新しく担うようになった職業教師であり、教える内容は大雑把には共通しているものの、個々人で異なっている人々、とまとめることができる。では、ソフィストの教えていたいたことの共通性は何だろうか。それは、徳(アレテー)であるとみなされた、人々を説得する術である弁論術である。

なぜ弁論術を教えていたのか。その理由を理解するには、ソフィストの誕生した当時のアテナイの時代背景を考慮する必要がある。(なぜ弁論術が徳(アレテー)なのかはソクラテスの回で扱う)

ソフィストが生まれた時代背景

ソフィストは、BC5世紀の中頃、アテナイに登場し始める。当時のアテナイは、大陸のペルシア帝国に勝利し、またギリシア都市国家間の同盟であるデロス同盟の盟主として繁栄を謳歌していた。内政においては、ペルシア戦争にて船の漕ぎ手として活躍した無産階級の市民が参政権を獲得し、全てのアテナイの成人男性が政治に参加するようになり、直接民主制が完成した。このように、アテナイは対外的にも、内政的にも高度に発展し、また外国との貿易も盛んになった。

このような社会変容の中で、特筆すべきは、直接民主制の樹立である。この直接民主制のもとでは、現在の国会にあたる民会において、人々の話し合いによって政策が決められた。また、裁判においても、原告側も被告側も自らの意見を主張し、抽選で選ばれた陪審員相手に説得する必要があった。これらのことから推測可能なように、人を弁論によって説得する能力が社会的な成功において必要不可欠だったのである。そのような時代背景のなか、青年たちに弁論術を教えるソフィストが登場したのである。

同様に特筆すべきことは、外国の文化との接触と、それによる従来の慣習の権威の低下である。戦争に勝利し、貿易を拡大したアテナイは、さまざまな国や地域の文化と接触するようになった。すると、なかには自国の文化と対立するものもある。そうなると、自国の文化や慣習、法律は、それが単にアテナイの中のみで通用するものでしかなく、絶対的なものではないのだと明らかになる。つまり、自国の慣習が相対化されてしまうのである。

その最たる例がソフィストである。初期のソフィストは皆、アテナイの外からやってきた。当時のギリシアには都市国家がいくつもあり、それら都市国家は互いに別々の法律をもっており、異なる慣習をもっていた。このようなソフィストは、同じギリシア人ではあるものの、アテナイからすると異国出身であり、半分は外国人であるといえるのである。そのようなソフィストが、従来アテナイで重んじられてきた慣習やホメロスなどの詩に代わって青年たちに弁論術を教えたのである。

しかも彼ら青年は、アテナイの国内で出世するという野心に燃えている。その方法は、弁論術によって相手を説得する、すなわち相手の論よりも説得力のある論を仕立てることである。それは常に、相手の論を反駁するということを必要としていたはずである。つまり、青年たちは、異国出身の教師によって教え込まれた弁論術によって、従来の慣習を重んじる年長のアテナイ市民を論駁していったのである。このことだけをみても、従来の権威との摩擦、慣習の権威が低下したであろうことが想像に難くない。

さらには、当時のアテナイでは法律の改正が頻発し、従来権威をもっていた法律さえもその絶対性が崩れていたのである。

こうして、当時のアテナイは、さまざまな社会変革が全て、従来の権威を脅かす方向に作用したのであった。

それぞれの視点から見たソフィストとは何か

社会の慣習を破壊してしまいうるようなソフィストに対して、アテナイの青年は自らの出世のために喜んで金銭を支払った。しかし、一方の従来の慣習に則る人々にとっては、ソフィストとはアテナイの慣習や文化を破壊する危険な人物であっただろう。事実、ソクラテスは、奇異な神を信仰し、青年を堕落させた罪で既得権益をもつ市民に告発され、処刑されてしまうのだが、ソクラテスは当時の民衆にソフィストであるとみなされていた。これに対して、ソクラテスがソフィストではないと弁護したのが、ソクラテスの弟子たちであり、なかでも有名なのはプラトンである。

ここに、ソフィストに対する異なる態度をとる三者が現れる。それは、ソフィストに師事する若者と、慣習の守護者である年配層と、ソクラテスとその弟子である。

アテナイの青年

まず、ソフィストに師事する若者は、当たり前だがソフィストに賛同する者である。若者は自身の政治的成功を望み、そのためにソフィストから弁論術を学ぶ。そして、その弁論術を活かし、相手を説得・反駁していく。その際に、同時に従来の慣習を否定する。彼らにとっては、慣習とは年長者にとっての既得権益であり、自身の出世を実現するためにはまず支配階層を牛耳る年長者を除外しなければならない。そのために、慣習や文化、価値観という枠組みを無に帰すことに抵抗はない。彼らにとって、目的は世俗的な出世であり、そのために役立つか否かが重要であり、ソフィストや慣習の否定はそのために役立ち、従来の慣習はそのために邪魔になる。つまり、彼らにとって役立つか否かが価値の尺度であり、ソフィストの教えが正しいか、慣習が本当に誤っているのかは問題にならない。また、慣習や価値観が破壊された後の社会が、良い社会となりうるのかということもまた問題にならない。

アテナイの年配層

次に、慣習の守護者である年配層は、ほとんど若者と逆のことが言える。彼らにとって重要なのは、自身の既得権益を保証してくれる従来の慣習であり、新しく入ってくる思想はその敵となる。仮に年長者が若者とは異なり、思想が自身のために役に立つか否かではなく、それ自体として正しいか否かを考える者だとしたら、ソクラテスをソフィストと同一視はしなかったはずである。ソクラテスがどのような点でソフィストと異なっていたかは後に見ていくが、そもそも具体的な思想内容の異なる個々の思想家を全てソフィストという名称で一括しているということが、思想を思想自体としてではなく、自身を脅かしうる連中=ソフィストという観点でしか見ていなかったことの証であろう。ただし、彼らは、従来の社会が従来の慣習で運営されていたことを知っているため、その状態が新たな思想を受け入れるよりも良い状態であると確信できるのならば、保守的になる妥当性があるといえる。だが、上述したように、彼らは新たな思想を思想として吟味することはなかったので、この仮説は消える。

ソクラテスたち

その次に、ソクラテスとその弟子たちである。彼らについては今後詳しく扱うが、彼らは慣習が揺らぎ、弁論のための弁論が蔓延る中で、正しさとは何か、徳(アレテー)とは何かについて考えた人々である。彼らは自身を真に益するのは、徳を具え、全なる人間になることであると考える。そのため、従来の慣習も出世による名誉や金銭も含めて疑問に付す。それゆえ、民衆からは慣習を疑うため、一見ソフィストと変わりがないように見える。しかし、その真の目的は、揺り動かされ、相対化された価値観によって炙り出された徳や善といった、人間がそれを目指すべきものの根拠薄弱さを乗り越え、新たに絶対的な徳や善を築こうというものなのである。

現代的視点

ソフィストを現代の我々の視点から考えてみる。ソフィストは、従来詭弁家とみなされており、反哲学的な存在として伝えられてきた。しかし、ソフィストは、それまでの哲学者が自然についてを扱ってきたのに対して、人間についての探究を行ない始めた、ソクラテスと並ぶ最初期の存在である。また、ソクラテスはソフィストであるとして処刑されたため、ソフィストの存在は、プラトンをはじめとする弟子はソクラテスをソフィストではないと弁明する動機となった。

また、ソフィストの築いた弁論術は、言論や論述を装飾する技法であるレトリック=修辞学を発展させた。以後のヨーロッパ文化では、この修辞学は自由学芸(リベラルアーツ)の一つに数えられ、自立した自由な身分にある成人の教養とみなされたのである。その伝統は現在の大学にも受け継がれ、学部生の最初の2年間をこの自由学芸の教育に充てている大学も多い。

最後にソフィストが与えたアテナイへの影響をを考える。上記で見てきたように、ソフィストの誕生は、社会の変遷上必然のことだったように思われる。とするならば、ソフィストとは、崩壊する秩序を加速する媒体であり、その価値の廃墟の上に何を真に価値あるものとみなすのかという問題を、図らずも突きつける存在であったといえるだろう。

 

参考文献

[1] 荻野弘之 (1999) 『哲学の原風景』 NHK出版

[2] 内山勝利(他)編 (2008) 『哲学の歴史 第1巻 哲学誕生』 中央公論新社