【古代ギリシア哲学6-3】多元論者と原子論〜レウキッポスとデモクリトス〜

前回に引き続き、パルメニデスの存在論と現象世界を調停する思想であり、パルメニデス以後の哲学者の仕事の集大成として原子論というものが登場する。この思想は基本的には、エンペドクレス、アナクサゴラスの思想の延長線上にある思想で、彼らと同じく存在者の構成物質に不生不滅を認める点でのみパルメニデスを継承し、それらの物質が多数であり、運動することで宇宙が現にあるように生じたとする点でパルメニデスに反し、現象に与する。

原子論はこのように多元論者と同じ基本軸の上にありながら、その理論は哲学史上においても、また科学史上においても後代に大きな影響を与え続ける。原子論の主張する存在者の構成物質は、原子(アトム)であり、それは現代の科学とは異なる意味であるものの、原子論の理論を原型にしている。そのような原子論という、現代に至るまで一つの思想の典型であり続ける思想の誕生とその原型について以下見ていこう。

原子論の提唱者〜レウキッポスとデモクリトス〜

原子論者という呼称について

通常、思想にはそれに対応する思想家がセットになって存在する。しかし、思想に対してその発明者がはっきりしない場合には、〇〇論の後に「派」や「者」とつけて、その思想を唱えた人物らを集団として扱う。例えば、以前取り上げたピタゴラス派においては、ピタゴラスの業績とその弟子たちの功績が区別不能であったため、ピタゴラス派と一括しその思想を扱うことが通例である。

これと同じように、原子論には、その生みの親としてレウキッポスというイオニアのミレトス出身の人物がいたとされているが、レウキッポスについては古代の時点で既に存在が疑問視されているほど情報が少なく、現在、僅か一つの断片を残すのみで他の著作は全て散逸している。これに対し、レウキッポスの弟子であるデモクリトスの著作は、現在に残存する断片があり、それを引用した他の著作もあるため、原子論の思想内容は、これを通して知ることができる。しかし、その思想が、レウキッポスの発明であったのかデモクリトスのものであったのかは不明である。実際、アリストテレスが原子論に言及する際も、常に両者の名前を併記している。そのため、資料としてはデモクリトス関係のものを使用しつつも、それが厳密には誰の思想だったのかは問わないことになっている。

なお、デモクリトスは紀元前460年ごろに生まれたとされ、ソクラテスよりも約10年ほど年下である。しかし、原子論という思想が、思想の区分上、前ソクラテス期の自然学的哲学に分類されるため、便宜上デモクリトスを前ソクラテス期の哲学者としている。

 

原子論の思想とはー多元論との比較ー

原子論とは、前述したように、多元論者の基本軸の延長線上にある思想である。そのため、エンペドクレスとアナクサゴラスにおいて見られた思想の差異が、原子論者にも当てはまる。その差異は、存在者の素材となる物質、すなわち構成物質と、それを運動させる外的な力に見られるのであった。

多元論者という名称が表すように、エンペドクレスとアナクサゴラスは、万物の構成物質を多数想定した。特にアナクサゴラスは、感覚的性質の原因として、熱・冷など様々な性質を持った物質を無数に想定し、それを構成物質とした。このように、多元論者は、世界にある様々な存在者を、その存在者が持つ性質を持つ小さな素材が集まってできていると考えていた。例えば、かき氷であれば、冷たい性質を持った物質が多く集まっていたり、反対に熱いスープだったら熱い性質の物質が集まっているというようにである。つまり、多元論者においては、存在者の性質は、その存在者を形成する素材の性質に基づいているとされるのである。そして、その存在者が無数に存在するため、存在者の素材である物質の性質も無数に存在するという理論を打ち立てたのがアナクサゴラスであった。

アナクサゴラスの思想は、世界には無数の性質を持った存在者があるがゆえに、その素材の方も無数であるとして、いわば無理に現実と理論の整合性をとったものである。仮に無数の性質の担い手として、無数の素材が要求されるのであれば、それは存在者を映す鏡のようにその原理を増やしていくことになり、それが原理についての説明になっているとは思えない。

もっともアナクサゴラスは、前回見たように、存在者の数だけその性質をもった素材があるとしたのではなく、単純な性質のみを要素とし、それを素材として想定していた。そのため、より単純なものが組み合わさって複雑なものが生まれるという理論であった。

しかし、前回も指摘した通り、単純と複雑の区分は恣意的であらざるをえないだろう。例えば、アナクサゴラスにおいて、人間は髪の毛や肉といった要素からなる複雑な存在者であった。一方、髪の毛や肉は単純な要素であり、事物はそれら単純な要素を無数に含むものとされた。ここで明らかなように、人間が複雑で、髪の毛が単純であるというのは、おそらくアナクサゴラスの経験則であり、特に根拠はない。髪の毛に対しても、それを構成する素材を想定することは可能だろう。

こうして、素材から素材へと遡っていくと、素材はより単純になっていき、おそらくどこかの時点で感覚的な要素を持たなくなると想定される。例えば、人間という存在者は、様々な性質を持つが、髪の毛や肉となるとその情報量は激減する。こう考えると、アナクサゴラスの狙いは、存在者の原理である素材に対して、その存在者が持ついくつかの感覚的性質を分解し、それをそれぞれの素材に持たせることだったのではないかと思われる。ゆえに、要素は、感覚的な性質を留める最小にまでしか分割され得なかったのである。

原子論の思想とはー原子ついてー

これに対して、構成物質を感覚的性質を超えたところまで分割していき、究極的な素材を理論的に見出そうとしたのが、原子論である。

原子という言葉は、ギリシア語でアトムであり、アは否定を表す接頭辞であり、トムは分割を表す動詞テムネインの変形である。つまり、分割不能なものという意味をもつ言葉である。このアトムは、存在者を分割し続けた先にある究極的な素材としての存在者であり、全ての存在者はこの原子=アトムからできている。

この原子は、存在者の分割の最終形態であり、最も基本的な性質しか持たない。その性質とは、大きさであり、それ以外の性質、例えばアナクサゴラスの要素とか感覚的な性質、味とか色とかは一切持たない。つまり、原子同士は大きさと形の違い以外に区別されない。

存在者の最小単位としての原子はこのように大きさと形しか持たないのだが、この原子同士が結合する仕方によって、結合によって生み出される存在者は多様な性質を持つようになる。それは、結合する原子の配列向きである。原子ABCがあったとして、この三つの原子がABCと並ぶのとCBAと並ぶのでは、生じる物質は異なる。また、Aが逆さまになってVに似た形になって結合したとしても、その生成物は異なる。

このような理論は、現代の化学と非常に似ており、原子論者の論理的帰結としての存在者の素材的原理が、経験的にも概ね正しいものであり、理論の完成度が高いと言えるだろう。

原子論の思想ー運動についてー

多元論者と同様に、原子論者においても、構成物質とそれを動かす力と区別される。運動を論じる際に、原子論者はまず、パルメニデスの中心的な理論である「あらぬものはありえない」という無の存在の否定を否定し、無はあるとする。

原子論者において肯定されたのは、原子という分割不能で充実した存在と対になる空虚である。この空虚は、原子が運動するために必要とされる空間上のゆとりである。仮に、原子がパンパンに詰まっていたら、原子が運動することができなくなってしまう。つまり、原子論は、原子に運動を可能にするために、原子間に空虚を想定したのであり、この空虚は原子が存在しない場所という相対的な意味での存在であり、原子の侵入を拒むような絶対的な存在ではない。そのため、原子論者における空虚とは、空間とほぼ同じ意味であるといえるだろう。

これに対して多元論者は、エンペドクレスもアナクサゴラスも無数の構成物質が充満する宇宙を想定しており、空間=物質であるといえるだろう。特にアナクサゴラスにおいては、事物は無限に分割可能であるため、空間は無限分割可能であるということになる。一方の原子論では、原子を分割不能な存在としているため、空間は無限分割不能であり非連続的なものであることになる。実際、原子論者は、アナクサゴラスの理論を、無限分割可能な事物=大きさを持たないものとし、大きさを持たないものから大きさを持つものは生じ得ないとしている。同様に、エレア派のゼノン(第5回目参照)に対しても反論している。

そのような、空虚を原子は運動する。この運動に対して、多元論とは異なり、原子論は原因を想定しない。原子はもともと何かによって動かされるような存在ではないが、他の原子が衝突してくることによって原子は運動させられる。この原子が衝突によって、原子同士は結合したり、分離したりする(これは、あくまでも結合であり、不可分な原子は融合することはない)。したがって、原子の結合や分離は全くの物理的な現象であり、偶然ということになる。つまるところ、構成物の生成消滅も同様に偶然ということになる。これは、運動の原因として知性を想定したアナクサゴラスとは全く異なる。アナクサゴラスの知性は、事物とその運動に対するの完全な把握をしており、この点で完全ではないが目的論的ともいえるのである。

この原子論のもとに宇宙の誕生を考えると、まず原子が空虚の中を分散してあった。のちに、原子が集まって、渦巻き状の運動を起こす。この運動によって、遠心分離機にかけられたように微細な原子は外側に飛ばされ、渦巻きの内側と外側に原子が分離し、似たような性質の原子が集まる。こうして、大地と星々が生まれる。原子と空虚は無限に存在するため、このような生成は至る所で生じるため、宇宙はあらゆるところにある。

原子論の思想ー人間についてー

感覚・知覚

原子論について、原子とは何なのか、存在者の多様性はどのようにして生まれるのか、原子はどのように運動し、結果としてどのように宇宙が誕生したのかを論じてきた。

原子論によると、原子は全ての存在者の物質的原因であった。それは、人間も例外ではない。原子論が人間に適用されるということは、原子によって形成され、原子の偶然的な運動に準じる人間像が導出されるということである。このような、宇宙・自然と人間を統一的に同じ原理によって説明するという試みを、物質的な原理で徹底させたのは、原子論が初めてであった。では、このような人間観は具体的にどのような特徴をもつのだろうか。

まず、人間と自然の構成原理を同一の存在とすることは、人間と自然の間に本性的な差異を認めないという帰結をもたらす。このことは既に、万物の構成物質を探求した、イオニア学派や多元論者の理論から導出可能なものではあるが、彼らは主に自然についての探究を行ったのであり、自然と人間の対応関係については原子論ほどは扱わなかった。原子論において初めて、人間と宇宙の対応間関係を表すための、ミクロコスモスという概念が生じた。ミクロとは小さいという意味であり、コスモスは宇宙である。つまり、ミクロコスモスとは、人間の中にもう一つの小さい宇宙を見出すという考え方であり、人間と宇宙が同一であると考えた証しである。

ちなみに、人間をミクロコスモスとし、実際の宇宙をマクロコスモスとして、対応させる思想は、今後の哲学史にも何度となく登場する。有名な哲学者で言うと、18世紀後半から19世紀前半にかけて活躍した有名な哲学者カントもこの用語を用いた。

次に、この対応関係は具体的にはどのような人間観を形成するのだろうか。自然と人間が両者共に原子で構成され、両者の運動は原子の偶然的な運動であるとするならば、両者の相互関係も原子の運動を介するはずである。この相互関係とはすなわち、感覚・知覚である。感覚とは、人間が世界のなかにある存在者と関係することである。視覚は対象が目に対して与えられ、聴覚は耳に対して与えられる。つまり、ここでは、対象と自分の感覚が相互関係にあるということである。この相互関係の方法を原子論は、原子の運動によって説明する。

対象は感覚器官に対して自らを流出する。この際に、対象の原子が直接感覚器官に作用するのか、それとも空気などが媒介するかは定かではないが、対象の原子の運動が感覚器官に伝わるのは確かである。そして、その伝達された像を知性的機能をもつ魂に送ることでその対象を知覚することになる。こうして、感覚する人間の外にある対象についての感覚が、原子の運動によって説明される。したがって、対象が人間に対してどのように現れるのか、例えば甘いとか、黒いとか、は慣習上のことであり感覚的性質そのものが存在するわけではないとされる。感覚的性質が多様に現れるのは、人間の側にある感覚器官の原子構造に従っているのであり、それゆえ、同じ対象の同じ感覚的性質に対しても、その時々で異なる感覚を覚えることがあるのである。(夏にテントの中から外にであると、テントの中が暑すぎるので、外が涼しく感じてしまう。)

このように、対象の感覚的性質は、原子の運動に付随するものであり、それ自体が実在するわけではないということを原子論は主張する。そして真に実在する原子は、そもそも感覚的性質を持たないものであった。つまり、人間は感覚的性質を持たない原子自体を知ることはできないし、知ることのできる感覚的性質は存在者の真の姿を表してはいないということになる。すると、人間には存在者の真の姿は知り得ないということになる。知り得るのは、原子の運動によって生じる感覚的性質という二次的な情報のみになる。このような、物事の実際のありようではなく、物事の現れしか知り得ないとする立場を、懐疑論という。

この懐疑論は、しかし、人間には知の獲得が全く不可能であるとしたのではない。確かに人間は、感覚的な性質を通してしか対象を認識できないが、この感覚知覚は二次的ではあれ対象の原子の運動に基づいたものである。そのため、この感覚的な現れ(哲学用語では表象いう)を正しい認識と捉えることは誤りだが、この現れを通して思惟を働かせる=知性的に認識することで、対象の真なる認識に近づくことができると考える。このように、原子論は現実主義的だが、決して正しさを知り得ないとする不可知論や虚無主義(ニヒリズム)ではない。その考え方は、倫理的思想にも表れている。

 

倫理

原子論においては、人間に現れるさまざまな性質は全て二義的なものであり、全ては不生不滅の原子の運動なのであった。すると、人間の感覚知覚と同様に、人間の苦しみや悩みも実際には存在せず、二義的なものであることになる。同様に、生老病死といったことも、不生不滅の原子からすれば、存在しないことになる。よって、原子論の唱える倫理は、こうした苦しみや悩みを排除し、快活さ、明朗闊達さを人生の目的とした、幸福論になる。

原子論における幸福とは、魂の善である。この魂の善とは、金銭などの外的な物質の所有によってもたらされるものではない。そうではなく、魂が適度な状態にあるということである。これは精神的な安定と捉えることもできるだろう。たとえば、底なしの貪欲に魂が囚われていたならば、どんなにたくさんのものを所有したとしても、その欲求が満たされることはない。その人は、尽きない欲求によって苦しめられることになる。逆に、「足るを知る」人ならば、周りからは貧しく見えても、本人は満ち足りた生活を送ることができる。このように、人間が幸福かどうかの尺度は、人間の外にあるのではなく、人間の内側、精神や魂と呼ばれるものの状態にあるというのが原子論の倫理観である。

このように、魂の調和の取れた状態を実現するためには、自らの魂について知らなければならない。どのようにすれば調和の取れた状態になるのかは、何が適度なのかを知らなければ実現できない。このような。自己の魂についての知を、原子論者は分別と呼び、「博識ではなく分別を多く持つことに努めなければならない」(断片65)とした。

また、法や正義はこの魂の調和を実現するためにあり、それを実現する限りにおいて善いものとされる。そのため、法や正義の絶対的な価値を認めず、それらが有用である限り善いものであるという思想であり、これは19世紀末に登場する実用主義(プラグマティズム)的な考え方ともいえるだろう。

こうした原子論の幸福を善とした倫理は、後の快楽主義の代表であるエピクロスに受け継がれる。エピクロスについては後に扱うが、快楽主義とは、その語感から誤解されやすいが、原子論と同じように人生において善であり目的であるのは、適度さによってもたらされる快活さであり、これは幸福でもあり快楽でもあるという思想である。そのため、一時的な快楽に溺れることは、その後の不快につながり、不幸を招くため、悪であることになる。

もっとも、このような快楽主義や実用主義の背景には、世界は原子とその運動から成立しているから感覚は二義的であるという思想があった。そのため、苦しみは存在しないし、悪法や悪き慣習もその根拠がないということがいえるのだが、であるならば同様に、幸福や善に対してもその根拠はないということになってしまう。つまり、原子論の自然観からすると、人間には不幸がないのと同様に、幸福もまたないということが帰結するのである。

ではなぜ原子論は幸福を善として捉えられたのか。それが原子論の理論の内部から説明できない以上、経験的なもの、つまり、苦痛よりは快楽の方が望ましいという当たり前な経験に行き着いてしまう。しかし、これが原子論自体から導出できず、むしろ原子論と相反し、かつ原子論の倫理論はこれを認めているということは、原子論は自然論と倫理論が、論理的に矛盾しているということになる。

このことはしかし、自然論と倫理論が違う次元の話をしているのだとすれば解決可能ではある。つまり、自然論とはこの世界の実在について扱うのであり、倫理学とは実在とは関係なく人間に現れている限りのことについて扱うのであるとすることである。しかし、この論を採ると、今度は苦悩が実在しないことの根拠が主張できなくなる。

このように、感覚的・感情的で人間的な事柄を扱うときに、それをどのように自然学と結びつけるのかは問題である。原子論のように、すべてを原子に帰するならば、人間の不幸の根拠を消し去ると同時に、幸福についてもまた無根拠にしてしまうのである。しかし、人間の倫理や幸福についての問題を自然の問題とは切り離してしまうこともまた、自然の中に生き、自然自体でもある人間について見誤ることになる。今の段階の私の見識では、この問題に答えることはできない。今後、少しずつ問題を解きほぐしていく他ないだろう。

 

まとめ

原子論は、以上で見てきたように、発展性の高い理論である。それは、原子論がさまざまな領域について、自然学から感覚認識論から倫理学まで扱えることに表れている。

以下で簡単にまとめると、

原子論の根本的な主張は、分割不能で充足した「存在」である原子と、その原子と同等の存在性をもったものとして空虚が存在し、その中を原子が機械的・物理的に運動している。その原子の運動によって、原子同士が結合したり、分離したりして、いわゆる存在者の生成消滅が成り立っている。この理論は、パルメニデスの存在を充溢と空虚に二分することで、運動と多様性を説明可能にした。そして、運動の原因を純粋に物理的な力に求めたことで、多元論者の援用した外的な力を導入する必要がなかった。ソクラテスがアナクサゴラスを批判したように、知性などの外的力は、人間を自然に対して投影するものであり、自然を人間の都合に合わせて説明してしまうことができる。それに対して、原子論の純粋に物理的な運動は、自然に対して人間の意図や目的を読み込むことなく、独立の存在として扱いうる。これは、現在の科学的な見方である。

そして、この自然理論を人間に対しても適用させた結果が論じられている。その結果、自然についての探究が、自然の一部としての人間についての探究を意味し、さらには、自然と人間の関係、すなわち認識論についての探究の必要性をも意味することになった。このように、初期ギリシアの哲学的な探求は、前ソクラテス期最後のレウキッポス・デモクリトスの原子論にいたって、後の哲学の主要なテーマに一通り先鞭を付けることになるのである。

【古代ギリシアの哲学】シリーズは、ついに前ソクラテス期を終え、次回は最も有名な哲学者といってもよいソクラテスについて扱う。それと同時に、扱いきれなかった前ソクラテス期の哲学者や、まとめの回も設けようと思っている。

 

参考文献