【古代ギリシア哲学8−1】ソクラテスの基本情報

前回までは、いわゆる前ソクラテス期と呼ばれる、紀元前6世紀から紀元前5世紀初めまでの間に活躍した哲学者を扱ってきた。今回からは、ソクラテスを初めとし、その弟子たちについて扱い始める。

まずは、おそらく哲学者のなかで最もその名を知られているソクラテスについてである。

この記事では、ソクラテスについての基礎知識について紹介する。

たとえば、ソクラテスは本を書かなかったのに、どのように我々はソクラテスを知りうるのか。また、ソクラテスの出自や人柄、性格、人生について、また、周りの人々からどのように思われていたのかも紹介する。

その結果、実はソクラテスはかなりの変人であり、見る人によって評価を変える存在であったことが明らかになる。そして、それが原因の一部となり、人々の恨みを買い、彼を死刑へと導くことになるのである。

本記事の参考文献

参考文献一覧(クリックして開く
原典(当時の哲学者が書いた本)

 

Amazonのリンクを使用しています。

プラトン(ソクラテス):  『ソクラテスの弁明』 kindleunlimitedにて無料

               『メノン』      kindleunlimitedにて無料

               『饗宴』       kindleunlimitedにて無料

               『テアイテトス』   kindleunlimitedにて無料

アリストパネス:      『雲』

クセノポン:        『ソクラテスの思い出』

二次資料(研究者が書いた専門書・入門書・参考サイト)

荻野弘之:         『哲学の饗宴』

内山勝利(他)編:     『哲学の歴史』

岩田靖夫:         『ギリシア哲学入門』

スタンフォード大学の百科事典的サイト:   https://plato.stanford.edu/entries/socrates/

ソクラテスを知る手段

作者によって異なるソクラテス像

ソクラテスは2500年前の人物であり、ソクラテスの人物像に迫るためには、当然、残された資料によるほかない。しかし、ソクラテスは一冊も著作を書かなかった。つまり、ソクラテスについて知るためには、ソクラテス以外の人物が残した、ソクラテスについての書物に頼るほかないのである。

ソクラテスは当時、彼の故郷のアテナイで有名人であったため、ソクラテスについていくつかの書物が残されている。喜劇作家アリストパネスは、ソクラテスについて、彼を奇妙なソフィストであると描いた喜劇『雲』を残している。ソクラテスの弟子の一人であるクセノポンは、自らの道徳的関心にもとづいて、『ソクラテスの思い出』という著作において、道徳の実践家としてソクラテスを描いている。そして、哲学者としてのソクラテスを伝えるのは、ソクラテスの弟子の一人、プラトンの書いた対話形式の著作に登場するソクラテスである。

ソクラテスと同時代を生き、直接ソクラテスに触れた人物が残した著作は、主にこの三つであり、歴史的に実際のソクラテスがどのような人物であったのかを知るときには、これらの著作を互いに比較することになる。しかし、これらの著作は、作者の立場や思想に応じて、それぞれ異なるソクラテス像を形成しているため、共通のソクラテス像を抽出することは困難である。そのため、哲学史としては、プラトンの著作に登場するソクラテスを、哲学者ソクラテスとして主に扱うことになる。(1)

プラトンの思想の混入

ソクラテスの発言や対話、思想をプラトンは自身の著書にて記しているのだが、そこには当然プラトンによる脚色や解釈が入り込んでくる。

プラトンの著作の中でも初期のものとされるものは、ソクラテスの初期対話篇と呼ばれ、演劇形式でソクラテスが登場人物と対話をし、徳(『メノン』)や美(『饗宴』)について話し合う。この初期対話篇は、たとえば徳とは何かについて話し合うが、明確な結論は出ずに、議論の行き止まり=アポリアに行き着き、終了するパターンをもつ。この初期対話篇においては、比較的ソクラテスの姿をそのまま描いていると言われているが、中期・後期に至るにつれ、徐々にプラトン自身の思想が顔をのぞかせてくる。最終的には、プラトンが自らの思想をソクラテスという登場人物に語らせるような感すらあるのである。

これは、プラトンが著者である以上避けられないことである。しかし、通常、重要なのは思想史ではなく、思想の内容であるため、仮に対話篇のソクラテスがプラトンによる脚色の結果であったとしても、そこから何を学べるのかに焦点を当てた方がいいだろう。

ソクラテスの人物像

出自・家柄

ソクラテスは、BC470年か469年に、ギリシアの都市国家アテナイ(現在のアテネ)で生まれた。この生年は、ソクラテスが死刑となったBC399年に、彼自らが70歳であると証言したことから逆算されたものである。父親は石材職人か彫刻家であったと伝えられているが、真偽は定かではない。プラトンの著作『テアイテトス』では、ソクラテスが自身の母親が産婆であったと述べており、そのことからソクラテスの対話が「ソクラテスの産婆術」と語られるのだが、これもまた真偽のほどは不明である。

ソクラテスの両親の職業は定かではないが、ソクラテス家は裕福であったとされる。このことは、ソクラテスの父親が、アテナイの有力政治家の家と関係があったことと、ソクラテスが重装歩兵として戦争に参加していたことから推測される。なぜなら、当時の重装歩兵は、武器や防具一式を自前で揃えなくてはならず、その費用にかなりの資産が必要だったからである。もっとも、ソクラテスは、後に触れるように、仕事もせずに広場で対話を続けていたため、死刑が宣告された70歳のころにはすっかり財産を使い果たし、陪審員に向かって食事をおごれと言い放つほど貧乏であった(2)。

容姿

この記事の画像は、ソクラテスの顔の彫刻で、ソクラテスの伝承をもとに作られたものである。その伝承によると、額は禿げ上がり、平べったい獅子鼻で、ぎょろっとした目をしていたという。つまり、ソクラテスは婉曲的にオブラートに包んで言えば、個性的な容姿をしていたのであり、顔だけをとっても良くも悪くも目立つ存在であった。(3)

人柄・評価

人柄

そんなソクラテスは、普段の言動にも奇妙なところがあり、いつも裸足で歩き回り、所構わず立ち尽くしては物思いに耽っていたらしい。プラトンの対話編『饗宴』では仲間に、「ソクラテスは美しい者に恋をする性格の人であり、いつも彼らを追いかけて茫然自失のありさまで、かつまたあらゆることに無知であり、何一つ知ってはいない」と演説されている。また、体力に優れ、ご馳走を平らげ、酒を飲んでも酔わず、美しい若者に恋をしても、欲に溺れることはないという人間離れしたようなエピソードも残っている。

評価

市民からの評価

ソクラテスが一般大衆からどのように見えていたのかは、アリストパネス『雲』に描かれている。この作品はソクラテスを主人公にした喜劇であり、当時のアテナイで上演され、ソクラテスもそれを観たという。当時の喜劇のスタイルは、実在の人物に基づき、その人物を面白おかしく風刺するというものであった。つまり、多少の誇張はあれど実際のソクラテスに近い姿を描かなければ、観客がソクラテスその人であると認識できず、笑いにはならない。そのため、アテナイ市民にとってのソクラテスは、この『雲』に登場するソクラテスに近いものであったと考えられる。

その『雲』の中に登場するソクラテスは、前回扱ったソフィストととされ、若者を集め、高額な授業料と引き換えに、弱論を強弁する弁論術を教える。また、天体や気象についての観察を行うなどの自然学に熱中し、神々を認めない不敬な者であるとされている。もっとも、実際のソクラテスは自身や仲間・弟子たちが証言するように、金銭と引き換えに何かを教えることもなく、また、自然学ではなく人間についての探究に専念した。つまり、アリストパネスの描くソクラテスは事実とは異なっている。しかし、人はその人と特別親しいのでなければ、その人のことをなんとなくのイメージで判断する傾向にある。この場合も、アテナイの一般市民は、ソクラテスの日頃の奇妙な言動から、アテナイの市民にソクラテスといえば変人であるというイメージをもっていたということがわかる。

弟子からの評価

以上は、一般市民から見たソクラテスであったが、ソクラテスのことをよく知る人物は彼をどのように見ていたのだろうか。ソクラテスの友人や弟子たちからいくつかの証言を引用しながら、以下見ていく。

まず、ソクラテスは、豪胆さにかけては人一倍であった。特にソクラテスの戦場でのエピソードは、プラトンのいくつかの対話編に散見される。対話篇の一つ、『饗宴』では、冬の攻囲戦において、過酷な寒さと食糧不足に耐え、傷ついた味方を救出し、敗走する際にも辺りを睥睨する姿に敵兵の方が物怖じした、と証言される。同様のエピソードは、内政においてもみられ、違法な告発や弾圧に対して、自らの命を顧みず、法に従った。命令に反いたソクラテスは危険な立場に陥ったが、当時のアテナイは、国政の混乱期であり、政権が変わったことでソクラテスはことなきを得た。それ以来、ソクラテスは公務においては、自らの信念を貫くことが身を滅ぼすと考え、私人として生きることにした。

また、弟子の一人クセノポンによると、神を敬い、正義を重んじ、善の代わりに快を選ぶことは決してない自制心の持ち主で、善悪について知り、判断を誤らず、人を善に導くような人物であった、と言われる。同様に弟子のプラトンも、「私たちの知る同世代人のうちで最も優れた、なかんずく思慮と正義において最も卓越したと言ってよいであろう人物」(パイドン)と言っている。

まとめ

このように、ソクラテスは、良くも悪くも変人であり、常人ではない性格をもっていた。そして、その人物像は、見る人によって評価を変えるものであった。事実、上に述べたように、ソクラテスに対する一般市民と仲間や弟子たちの評価は正反対であった。このことが、後のソクラテスの死刑判決を後押しすることになる。

次回は、ソクラテスはなぜ死刑判決を受けたのかを扱っていく。その過程で、判決の背景に、ソクラテスが受けた神託や、有名な「無知の知」などのソクラテスの思想が絡んでいることが明らかになるだろう。

注釈

(1)『哲学の饗宴』第1章p.16

(2) 『哲学の歴史』ソクラテスの章を参照

(3)『哲学の饗宴』第1章p.13

(4)同上

参考文献

原典

プラトン (1927)『ソクラテスの弁明・クリトン』 (久保勉訳) 岩波文庫

 

こちらは新訳で読みやすく、KindleUnlimitedにて無料で読めます。

 

               『メノン』      kindleunlimitedにて無料

               『饗宴』       kindleunlimitedにて無料

               『テアイテトス』   kindleunlimitedにて無料

アリストパネス:      『雲』

クセノポン:        『ソクラテスの思い出』

 

 

二次資料(研究書)

荻野弘之 『哲学の饗宴』 NHK出版 2003年

 

 

内山勝利(他)編 『哲学の歴史』 中央公論新社 2008年