「ちょっと」とは何か② 哲学チャンネルep.42-43

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この記事は、前回の①の続きです。

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「ちょっと」とは何か① 哲学チャンネルep.42-43

 

主観化された客観性としての「ちょっと」

これまでの議論で、以下のことが結論されました。

「ちょっと」と言うとき、それは文脈や感覚といった、コミュニケーションを行う双方に共通した前提を基準にする。その前提は過去のコミュニケーションの蓄積を基にしつつも、その発話する場においては、発話者の主観に基づく。つまり、過去のコミュニケーションにおいて「ちょっと」の基準について、他者の視点によって修正されてはきたものの、それを基に「ちょっと」の基準を作るのは発話者であり、その場において「ちょっと」かどうかを判断しているのは、発話者の感覚である。それゆえ、「ちょっと」と言うとき、発話者は自分の感覚をあたかも客観的で正当な感覚であり、相手も当然理解できるかのように扱うため、独善的でもある。

靴紐を結ぶときに「ちょっと待って」と言うとき、さすがに1時間待たされる訳はないということは、誰もがわかっています。それはある意味、客観的な基準として存在している訳です。そして、その客観性は言葉の自由度を下げるものでもあります。一方、この場合、「ちょっと」が30秒か40秒であるのかに関しては、どちらもあり得るでしょう。つまり、「ちょっと」という言葉は、妥当であるようなある程度の範囲を持つと言えます。そして、その妥当な範囲というのは、同じ感覚・文脈を共有することによって生じる拘束力ともいえるでしょう。それは、誰もが賛成しうる範囲をもちつつも、個人差を微妙にもつものであり、その間に緊張関係が生じます。つまり、確かに、誰にとってもこの場合の「ちょっと」は、この範囲に収まるはずだが、その範囲内でどの程度・どの値を取るかについては、発話者自身が納得する、あるいはしっくりくるような値を想定し、その値を「ちょっと」という言葉にこめているということです。

これは、受動性のなかの能動性とでもいうべき事象で、人の世界観(世界をどのように捉えているのかの全体像)を形成する基本的なプロセスのように思われます。そのプロセスは、おそらく以下のようなものでしょう。

人は、共通の妥当な基準を、自らの経験と他者との交渉によって学習し、それを内面化します。たとえば、靴紐を結ぶのにかかる時間を自分が実際に結ぶことや、他人がそれを結ぶことによって学習し、自分自身の基準として採用します。この時点で、妥当な範囲が客観性をもちつつ、自分自身の基準として、主観化されます。主観化されたということは、それは自分にとっての基準として機能するということなので、自分がよりしっくりくるような基準に微調整されます。こうして、あくまでも自分にとっての感覚的な程度である「ちょっと」が、ある程度の客観性を保ち、同時に、齟齬の原因にもなりうるのです。

 

主観性の伝達手段としての「ちょっと」

以上より、「ちょっと」という基準が形成されるプロセスにおいて、客観性の取得とその内面化による主観化、そして「ちょっと」という表現のもつ幅=曖昧さによって、個々人による恣意的な数値・程度の設定がなされる、ということがわかりました。

そして、そのような意味をもつ「ちょっと」をコミュニケーションにおいて使用するときには、お互いに共通の前提をもっていることが必要であり、その前提を互いが確かめ合いつつ、私にとっての「ちょっと」(=恣意的な「ちょっと」)とはこうであるということを、「ちょっと」のもつ客観性に乗せて、相手に伝えるということが行われている、といえるでしょう。

そうすると、コミュニケーションの本質とは、共通性を基にしつつ、それを互いの主観性の領土へと引きつけ合うというものである、といってもいいかもしれません。「ちょっと寒いね」と言うとき、その気温は常識的に考えて寒いといえる範囲にある必要があります。同時に、それが自分にとっては、「かなり」でも「だいぶ」でもなく「ちょっと」であることは、あくまでも自分の感覚であり主観的な基準です。それは、本来ならば、他者に伝えようのない自分にしかわからない感覚です。しかし、人間とは、おそらくそういった自分にとっての感覚や、自分にしかわからない感情のようなものを他者にどうしても伝えたいのだろうと思います。その時に、間違いなく通じる客観的な基準をもつ言葉に、その主観性を込めるのです。

 

親密な暗号としての「ちょっと」

このように、主観性を紛れ込ませたコミュニケーションを特定の相手と続けていくことで、そこには客観性とは異なった意味の空間が成立します。わかりやすくいうと、親しい人との間でしか通じないコミュニケーションが成立します。そのコミュニケーションでは、主観性の綱引きによって変質した客観性が蓄積し、元の客観性をもつ言葉を上書きしてしまっているといえるでしょう。

だからこそ親しい関係にあるならば、「ちょっと寒いね」と言われた場合、相手がどの程度寒いのかなんとなくわかるのです。これはつまり、主観性の共有であり、この共有と客観性の上書き、すなわち主観化は同時並行的であるでしょう。

つまり、親しさを築く過程とは、中立的=客観的状態である意味空間が、主観化の蓄積と共有によって、独自の共有された主観的意味空間を作り上げる過程ということができ、これはすなわち、言葉の本来の意味=中立的・客観的意味を上書きする過程であるということです。よって、親密さは他人には通じない暗号を要求することになるのです。

 

まとめ

「ちょっと」という言葉が、どんな言葉を対象とするのかをまずみていき、それは数値的対象と程度的対象であることがわかりました。数値的対象は、絶対的な基準として数値があるにもかかわらず、曖昧な「ちょっと」という表現をするのはなぜなのかをみると、それは、両者の共通の理解である文脈的な意味が「ちょっと」にこめられているということがわかりました。そして、程度を表す「ちょっと」においても、共通の感覚が前提とされており、「ちょっと」とは総じて互いが前提とすることがこめられているということになりました。

その前提は、主観化された客観性であるがゆえに、主観によって歪められ、時にコミュニケーションに齟齬が生じます。しかし、コミュニケーションが蓄積していくことで、互いにその主観性を理解し、それが新たな共有された前提となることで、客観的な意味とは異なる主観的な意味をもつ空間が生じます。これは、互いが互いの主観性を理解している点で親密さであり、同時に客観的意味空間に対しては暗号となります。

以上は、分析的に論じられたものであるため、ややわかりにくいですが、簡単に言えば、本当は「ちょっと」ってどれくらいなのか他人にはわからないはずなのに、なんとなくわかったり、この人が言うんだからこれくらいかなと推測が効いたりするのは、何か互いに共有するものがあるからであるということです。

「ちょっとすいません」の「ちょっと」

この結論をもとに考えると、「ちょっとすいません」とか「ちょっとわかりません」というときの「ちょっと」とは、共有されていない主観性を相手に伝える≒押し付けようとしているといえるでしょう。通常の「ちょっと」は、ある程度伝わる客観性のなかに、自分にとっての程度を含ませた「ちょっと」であるため、主観的なものの伝達の手段として便利なのです。ただし、この場合の「ちょっと」には、通常の「ちょっと」と異なり、客観的な基準が存在しません。そのため、同じ「ちょっと」ではあるものの、その程度は完全に主観的なものであるということです。

つまり、「ちょっとわかりません」というときの「ちょっと」にこめられたものは、発話者の完全な主観であるため、何をこめてもいいし、また何がこもっているかもわからないということになります。もっとも、だいたいは申し訳なさや、難しさ、といったものをこめていることが多いので、そういった意味として蓄積され、それが客観的な意味にまでなっているといっていいでしょう。また、そもそも「ちょっと」を使い始めたきっかけとしては、おそらく広辞苑にあるように、「ちょっとのことでは〜できない」というものがあったのでしょう。