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今回は、哲学カフェを実験的にやってみるということで、その題材として「ちょっと」とはなにかについて話しました。
「ちょっと」という言葉は、日常的によく使う言葉ですが、私は今までその意味を気に留めたことはありませんでした。
しかし考えてみると、同じ「ちょっと」でも、使い方によって「ちょっと」という言葉の意味がずいぶん異なることに気づきます。
「ちょっと待ってて」と「ちょっと難しいな」を比べると、それぞれの「ちょっと」の意味は同じとは言えないでしょう。それなのに、便利にいろいろな言葉の前につけて使っています。
今回は、そんな不思議な言葉、「ちょっと」について、どのような意味があるのか、それぞれの使用例から考え、そこに共通する意味合いを導き出そうと思います。
使用例
「ちょっと」には、主に二つの使い方があるように思われます。一つは、数や程度を表すもので、もう一つは、否定や断りの文句の前につけるものです。
数や程度の例:
ちょっと距離がある →具体的な数字は不明だが、距離は数値で表せる
ちょっと甘い →数値では表せないが、程度の大小を表せる
否定・断りの前の例:
ちょっとわからない、ちょっと難しいなど
広辞苑には5つの意味が載っています。1〜4までの意味は、数値や程度的な意味で、5の意味が否定の言葉とともに、「ちょっとのことでは、〜できない」という意味であると説明されています。つまり、5の意味だけ、ちょっとではないということ、つまり反対の意味であるとされています。
確かにそういったニュアンスもあるでしょうが、「ちょっとすいません」や「ちょっとわかりません」といった用法には、それとは別の申し訳なさのようなニュアンスも込められているように感じます。そこにはやはり、数や程度の少なさから派生した意味合いが潜んでいるように私には思えるのです。
そこで、まずは、数や程度を表す「ちょっと」について考え、そして、その意味と否定・断りの意味の繋がりを考えようと思います。
「ちょっと」の二つの種類
この意味での「ちょっと」がもともとの意味でしょう。数が少ない、程度が少ないということを口語的に表現したものが「ちょっと」であり、日常的にもよく使います。
まず、数値的に置き換えられる「ちょっと」について考えます。
例えば、「ちょっと距離がある」については、距離の大小を表しており、ここに数値を代入することができます。「3km(離れているため)距離がある」というように、正確で画一的な数字による表現に直接的に置き換えることができます。
次に、数値ではなく程度についての「ちょっと」を考えます。
例えば、「ちょっと甘い」や「ちょっと寒い」などは程度を表す「ちょっと」の使用例といえます。これらは、感覚的な表現であるため、数値によって置き換えることが直接的にはできません。甘さの場合は糖度、寒さの場合は温度という数値的な表現がありますが、これらはあくまでも何らかの成分の含有量や、分子の運動の尺度であるため、感覚に対する直接的な関係はなく、間接的な関係であるということになります。実際、同じ糖度でも温度や他に含まれる成分が異なることで、かなり甘さの感覚に差が生まれます。また、温度についても同じ温度が必ずしも同じ体感温度となるわけではないことは経験上明らかでしょう。
このように考えると、数値を表す「ちょっと」と感覚を表す「ちょっと」は、客観的な事物を対象とするものと、主観的な感覚や感情を対象とするものに分かれているといえるでしょう。そして、主観的な対象は、「ちょっと」のような程度を表す表現しかできないため、絶対的な尺度のない世界である一方で、客観的な対象は、「ちょっと」という曖昧な言葉を使わなくても、数値という絶対的な尺度によって表現可能な世界であるといえます。
つまり、「ちょっと」という言葉を使う宛先の世界には異なる二つの世界があるといえることになります。ここでいう世界とは、数値という客観的な尺度によって測れるもののみを含んだ世界とそうでないものを含んだ世界であり、それは科学が対象とする世界とそうでない世界と言い換えることもできます。この二つの世界は、人間の作った尺度の有無によって分けられている以上、その境界線は曖昧さを含みます。しかし、人間の感覚に頼ることによってのみ表現できる世界(甘さは人間のが甘いと感じることによってのみ生じる)と、感覚を離れて表現できる世界(距離は物体同士の概念である)は、学問の上でも、言葉の上でも分けられています。
結論としては、「ちょっと」とは、この二つの世界の両方に使うことができ、その区別を曖昧にする言葉であるといえるでしょう。
「ちょっと」の根幹的意味
数値を表す「ちょっと」
感覚的なものに対しては、程度を客観的に表すことができないため、「ちょっと」という曖昧な表現を用いることしかできない。このように捉えると、「ちょっと」という言葉は、正確性を欠いた不完全な言葉であるというネガティブなイメージをもたらしますが、本当にそうでしょうか。
ここで考えるべきは、数値化可能である対象に対しても、「ちょっと」という表現を用いている、という事実です。「ちょっとの距離」と言うとき、それは数値的な表現を単に不正確にしたものではなく、そこには数値的な表現にはないニュアンスが含まれていると考えるべきでしょう。
わかりやすい例として、「ちょっと待って」と言われた場合、この「ちょっと」とはどんな数値に置き換えられるでしょうか。待つ時間は、確かに何分や何時間のように数値で表すことができます。その点では、この「ちょっと」の用法は、数値的なもの、客観的な対象に対するものでしょう。しかし、ここの「ちょっと」は、文脈によって大きく変わるため、どんな場合でもあてはまる数値として置き換えることはできないでしょう。たとえば、靴紐を結ぼうとしているときに言われる「ちょっと待って」は、1分未満でしょうし、海外にいる友人に手紙を送るときに、返信は「ちょっと待って」と言うときには、数ヶ月単位で待つ必要があるでしょう。
このように、たとえ「ちょっと」が数値的な表現が可能な対象に対する使用であった場合でも、「ちょっと」が単なる正確性を落とした表現であるのではなく、文脈による意味の補填を加味した表現であるということがいえます。言い換えれば、「ちょっと」とは、文脈上の自明な共通理解を表しているということです。「ちょっと待ってて」と言った場合、このシチュエーションでちょっと待つといったらこれくらい待つのだろうという共通の認識のもとに、「ちょっと」が具体的な数値の代わりをなしているのです。
程度を表す「ちょっと」
数値を表す「ちょっと」が互いの共通する前提をもとに、文脈的な意味を補った表現であるということは、程度を表す「ちょっと」についてもあてはまるでしょう。
程度の表現に関しては、それは数値化できず、感覚に依存することになります。「ちょっと寒い」と言った場合、その寒さの程度は体感している本人にしかわかりません。つまり、この「ちょっと」がどの程度の寒さなのかは、本人の感覚以外では理解できないということです。
しかし、「ちょっと寒い」と言うとき、それが相手にも伝わるだろうと思います。なぜならば、寒さの感覚をお互いが持っているからです。仮に誰かに「ちょっと寒い」と言われたとき、自分にとっては寒さを感じないときでも、相手が感じているであろう寒さを想像することができます。それは、お互いがある程度共通の感覚を持っているからであり、その共通の感覚を前提にコミュニケーションをしているからです。
つまり、お互いが共通の感覚を持っているだろうため、自分にとっての「ちょっと」という感覚が、相手にとっても「ちょっと」と想定でき、それゆえに、本来は自分しかわからない自分の感覚としての「ちょっと」をあたかも共通の尺度・基準であるかのように使うことができるということです。
両者に共通の意味
これまでの議論で、数値を表す「ちょっと」は、互いが前提とする文脈を含んだ意味をもつものであり、程度を表す「ちょっと」は、感覚が共通であることを前提に、自分の感覚による意味をもつものである、という結論がでました。
この両者は、コミュニケーションにおいて、相手と自分の間になにか共通なものを設定するという特徴があるようです。しかし、同時に、「ちょっと」という言葉の曖昧さから生じる、前提や共通性の不安定さもまた存在するでしょう。
たとえば、「ちょっと待ってて」と言われた場合、言われた側は、5分程度を想定していても、言った側は20分程度を想定しており、想定より長く待たされていると感じるかもしれません。「ちょっと寒いね」と言われたとき、自分にとっては全く寒くなかったという経験もあるでしょう。このように、「ちょっと」という表現は、曖昧である上、さらに共通の前提を要求するため、この前提が共有されていない、あるいは、異なっている場合に、コミュニケーションに齟齬が生じます。
この共通の前提は、程度の表現のときに特に明らかであるように、あくまで自分の中での前提であり、それが共有されていると自分が(ある意味勝手に)思っているにすぎません。そもそも、ある場面において「ちょっと」とは何分である、といった数値的な基準は存在しません。定義上、「ちょっと」とはそういった数値的な絶対的で客観的な基準に頼らない表現なのです。よって、「ちょっと」と言うときは、自分の中の基準での、この文脈上の「ちょっと」なのであり、それは今までの自分の経験や感覚に基づいたものであることになります。この基準は、それまではのコミュニケーションの事例の蓄積といった多少の客観性を含むためあまりにも他人と異なるといったことはないかもしれませんが、やはり自分にとっての基準であり、あくまでも自分の中での表現といえます。
つまり、「ちょっと」と言うとき、それが伝わるだろうという想定をしつつも、あくまでも自分の中での基準であり、自分にしかわからないニュアンスを含むことになります。それは、コミュニケーションとしては、かなり独善的であると言わざるを得ないでしょう。
次回に続く